不破哲三の言う「マルクスの「発生論的方法」」なるもの

不破哲三の言う「マルクスの「発生論的方法」」なるもの

 

 日本共産党は、不破哲三がマルクスの『資本論』の方法を「発生論的方法」というように論じていることについて、次のように解説している。

 「講義第1回では、マルクスの「発生論的方法」が詳しくとりあげられています(第1冊77~82ページ)。これは、「資本主義社会の複雑な仕組みのなかから、その全体の土台をなすもっとも基礎的な関係の分析から出発し、一歩一歩、より高度な関係の分析に進み、分析の成果を段階的に重ねて、資本主義経済の内面的な論理を明らかにしながら、最後に、資本主義社会の表面に生起する複雑な現実の全体を解明する」やり方のことです(78ページ)。

 不破さんは、マルクス以前の経済学(古典派経済学)との違いという角度から、「発生論的方法」の重要性を指摘しています。古典派経済学は、資本主義を支配する内面の論理の解明にとりくみましたが、そのための方法論が会得できなかったため、矛盾に落ち込んでしまったのです(79~80ページ)。「古典派経済学との違いという点では、資本主義を「人類社会の絶対的な形態」とみるか(古典派経済学)、「人類の歴史のなかの一段階」「歴史的な社会形態の1つ」とみるか(マルクス)という点も重要です(74~77ページ)。」

 この解説は、よく言って、マルクスの下向・上向の弁証法の歪曲である。

 この解説は、マルクスが、19世紀中葉の資本主義と対決し、この現実を下向的に分析することをとおしてその本質をつかみとり、今度は、この本質を出発点として上向的に展開し、資本制生産様式の総体を明らかにしたこと、このマルクスの方法をつかみとることなく、マルクスの下向的な認識過程を抹殺し、これから切り離して、学問的な体系的な上向的展開の過程を自立化させるものである。この解説は、不破が「その全体の土台をなすもっとも基礎的な関係の分析から出発し」と言うところの、出発点をなす「もっとも基礎的な関係」をマルクスはどのようにしてつかみとったのか、ということを何ら明らかにしていないものであり、そのことを何ら問うていないものなのである。

 これは、『資本論』を書いたマルクスを、あたかも、ブルジョア学問として確立されている数学のように、公理を原理としてアプリオリに前提とし、ここから演繹的に説きおこしたというように見なすものなのである。

 このような解釈におちいるのは、現実の資本主義を分析したマルクスという主体そのものを何ら考察していないことにもとづくのである。このマルクスという主体そのものの考察の欠如をおおい隠すための言辞が「つねに現実の社会が「前提として」頭の中に思い浮かべられていなければならない」というものなのである。頭の中に思い浮かべるといっても、それは「前提」でしかないのである。

 このような解釈につらぬかれているところのものは、この資本主義社会を変革するという、マルクスの熱烈な意志、その実践的立場をおのれのものとすることの欠如である。それは、このように解釈する者が、この資本主義社会において完全に疎外され搾取されているプロレタリア、このプロレタリアの立場にたっていないことそのものにもとづくのである。

 われわれは、日本共産党の面々の『資本論』解釈の問題性の根源はここにあることをあばきだし批判していかなければならない。