マルクスの具体的な革命戦略論は「権力移動論」なのか

マルクスの具体的な革命戦略論は「権力移動論」なのか

 

 マルクスエンゲルスの具体的な革命戦略論を「権力移動論」と捉える見解がある。「権力移動論」とは、マルクスエンゲルスは、ヨーロッパにおける革命にかんして、国家権力を掌握するのを、大ブルジョアジーから小ブルジョアジーへ、そして小ブルジョアジーからプロレタリアートへと移動させていく、というように考えた、と捉えるものである。

 だが、はたしてそう言えるのか。

 マルクス・エンゲルスの、ヨーロッパにおける革命の具体的考察を見るならば、それは「権力移動論」というようなものとはまるで異なる。私が読むかぎり、それは、一般に「権力移動論」というかたちで特徴づけられているところの「西ヨーロッパ先進資本主義諸国における都市小ブルジョア階層とプロレタリアートとが連合した階級闘争の推進という把握のしかた」というようなものとはまるで異なるものとして、私には読めるのである。

 ここでは、『共産党宣言』の文庫本に収録されているところの、1850年にマルクス・エンゲルスによって書かれた「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」という論文をとりあげる。

 そこでは、次のように書かれている。

 「兄弟諸君! われわれは、すでに一八四八年に諸君に、ドイツの自由主義ブルジョアはまもなく政権をにぎり、そのあらたに獲得した権力をただちに労働者にむけるであろう、といっておいた。諸君の見られたとおり、このことは実現されている。事実、一八四八年の三月運動ののち、ただちに国家権力を掌握し、この権力を利用して、労働者、すなわち闘争中の自分らの盟友を、ただちに以前の被抑圧者の地位におしもどしたのは、ブルジョアであったのだ。ブルジョアジーは、三月革命で一掃された封建的党派とむすびつくことなしには、結局はこの封建的・絶対主義の党派にふたたび支配権をゆずりわたしさえすることなしには、このことを実行できなかったのであるが、……」(『共産党宣言共産主義の原理』国民文庫版、106頁)

 「民主主義的小ブルジョアは、できるだけはやく、そしてせいぜい前記の要求〔農村におけるブルジョア的所有関係を貫徹させることなど〕を実行するぐらいのことで、革命を終息させようと思っているが、われわれの利益とわれわれの任務とは、多かれすくなかれ有産のすべての階級が支配(的地位)からおしのけられ、国家権力がプロレタリアートによって奪取され、一国においてばかりでなく全世界のすべての主要国におけるプロレタリアートの結合がすすんで、これらの国々におけるプロレタリアの競争がやみ、すくなくとも決定的な生産諸力がプロレタリアの手に集中されるまで、革命を永続させるにある。」(同前、110頁)

 マルクスエンゲルスはさらにつづける。

 「われわれにとって問題になりうるのは、私的所有の変更ではなくてその廃止だけであり、階級対立のごまかしではなくて階級の廃止であり、現在の社会の改善ではなくて新しい社会の建設である。」(同)と。

 このような論述から、結果として誰が国家権力を掌握するのかということをひろいあつめて並べるならば、権力は、ブルジョアジー—小ブルジョアプロレタリアートへと移動することになる、という図式を描くことができる。

 だが、マルクスエンゲルスは、そんなことを論じているのではない。また「都市小ブルジョア階層とプロレタリアートとが連合した階級闘争の推進」というようなことを提起しているのでもない。「同盟は」「ただ一つ断固として革命的な階級すなわちプロレタリアートの隊列の先頭に立った」(104頁)ことを確認し、階級闘争の現状の分析に立脚して、われわれ=共産主義者同盟の任務を提起しているのである。

 『共産党宣言』でも、「共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする」(74頁)と書いていることからするならば、推測するに、共産主義者同盟の組織成員のなかに自分の見解や意図を公然と主張することを怖れるメンバーがいたのではないだろうか。あるいは、自分でしゃべることができるまでに共産主義について把握しえてはいないメンバーがいたのではないだろうか。それで、マルクスエンゲルスは、全世界のすべての主要国で国家権力をプロレタリアートが奪取するのだ、ということを主張せよ、私的所有の廃止を、階級の廃止を、そして新しい社会の建設を主張せよ、そのようにして共産主義者をつくりだし、プロレタリアートを階級として組織せよ、と組織成員たちを叱咤激励していたのではないだろうか。

 私はこう思うのである。