『資本論』の第一巻的アプローチと第三巻的アプローチ

『資本論』の第一巻的アプローチと第三巻的アプローチ

 

 われわれは、マルクスの『資本論』の展開を深くつかみとるために、それの第一巻と第三巻とのアプローチの違いについて考察しなければならない。

 『資本論』は、資本制生産の普遍本質論をなすのであって、資本制という歴史的・階級的規定をうけたうえでの普遍的抽象のレベルにおいて展開されている、といえる。すなわち、マルクスは、資本制生産の直接的現実から出発して、それを下向的に分析し、そのどんづまり=普遍的抽象のレベルにまで下向して、このようにしてつかみとった資本制生産の本質的なものを体系的叙述の出発点にして、存在論的=上向的に展開したのであり、これが『資本論』だということである。

 このような普遍的抽象のレベルを〈総資本=総労働〉のレベルというように表記することができる。

 この普遍的抽象のレベルにおいては、個々の資本は総資本として意義をもち、個々の労働は総労働として意義をもつ。このレベルでは、種類の異なる商品およびそれらを生産するところの種類の異なる生産部門が措定されるだけであって、商品にふくまれている労働も、商品を生産する労働も、したがって生産部門・生産過程も、種類が異なるという以外は、まったく同一である。すなわち、労働の技術性の違いは捨象されている。

 この〈総資本=総労働〉という普遍的抽象のレベルということでは、『資本論』の全三巻をつうじて同じなのであるが、そのうえで、第一巻と第三巻とでは、少しばかり異なる。第三巻においては、総資本の直接の構成部分としての諸資本と総労働の直接の構成部分としての諸労働が措定されるのである。内容上では、生産部門のあいだでの資本の有機的構成の違いが措定されるのである。この意味において、第一巻を資本制生産の普遍的本質論のなかの本質論とするならば、第三巻はその本質論の現実形態論である、ということができる。このことをさして、『資本論』の第一巻的アプローチと第三巻的アプローチの違いとよぶことができるのである。

 このことは、内容上では、マルクスは、第一巻において、資本による賃労働の搾取を、すなわち剰余価値がうみだされる構造をあばきだしたのにたいして、第三巻においては、この剰余価値が利潤・利子・地代というように形態変化をとげるという資本制生産の総過程を論じていることに、端的にしめされる。

 第三巻において、マルクスは、その第一篇で「剰余価値の利潤への転形と、剰余価値率の利潤率への転形」を論じる。

 マルクスは、第一巻では、生産された商品の価値は、不変資本部分+可変資本部分+剰余価値 であらわされることを明らかにし、可変資本部分にたいする剰余価値の比率、すなわち必要労働時間にたいする剰余労働時間の比率を搾取率と名づけて、搾取をあばきしたのであった。

 マルクスは、第三巻においては、生産部門によって資本の有機的構成が異なるということを措定する。資本の有機的構成とは、投下総資本にたいする不変資本の比率をなす。

 資本家は投下総資本にたいする剰余価値を多く得ようとして競争する。ここにおいて、剰余価値は投下総資本にたいするものとしての利潤に転形し、商品の価格は、費用価格+利潤というかたちであらわれるものとなる(費用価格=不変資本部分+可変資本部分)。なぜなら、資本家にとっては、投下総資本にたいする利潤の比率たる利潤率が問題なのだからである。

 そうすると、資本の有機的構成の異なる生産部門の資本のあいだでの競争によって、利潤率は平均化され、すなわち平均利潤率が形成され、利潤は平均利潤に転形し、商品価値は、費用価格+平均利潤というかたちであらわされるところの生産価格に転形する。

 マルクスは、第三巻において、このようなことを論じているのである。

 われわれの目を転じて現代を見るならば、現在の諸商品の価格は、現代帝国主義経済のもとで独占価格になっている、ということを考慮したうえでも、資本の有機的構成の高い生産部門の諸企業、すなわち労働者数を徹底的に減らしている生産部門の諸企業のほうが、労働集約的で資本の有機的構成の低い生産部門の諸企業よりも、膨大な利益を得ている、というように現象している。このことを——もろもろの考察をとびこえて一挙に——資本制経済学本質論的に考察するならば、それは、上のことにもとづくのである。資本の有機的構成の高い生産部門の諸企業は、それの低い生産部門の諸企業がその労働者たちから吸い取った剰余労働をふんだくっているのである。このゆえに、資本の規模に比して労働者の数が少ないにもかかわらず、膨大な利益を得ているのである。

 われわれは、マルクスは、第一巻においては、このようなことを捨象して、資本による賃労働の搾取そのものを論じているのだ、ということをしっかりとおさえることが必要なのである。