「資本論」の展開の背後のマルクスの論理、マルクスの主体そのものをわれわれはつかみとらなければならない
私は、前回の文章(4月27日のこのブログ)で次のように書いた。
「……したがって、この搾取を廃絶するためには、労働者は、みずからの労働力を商品として売るということそのものを廃絶しなければならない。
では、労働者がみずからの労働力を商品として売らなければならないのはなぜなのか。それは、労働者は生産手段をもっていないからである。資本家が生産手段を資本というかたちでもっているからである。労働者は生産手段を資本家に奪われたからなのである。したがって、労働者がみずからの労働力を商品として売らなければならないということそのものを廃絶するために、労働者は団結して、資本家から生産手段を奪い取らなければならない。資本家を、同じ労働者にしなければならない。こういうことを明らかにしなければならない。」
われわれは、労働者たちを変革するために、われわれが直面している直接的現実から出発し、この直接的現実をマルクスの理論を適用して下向的に分析し・ほりさげ、われわれは何をなすべきなのかということを明らかにして論議しなければならない。マルクスの理論を適用するわれわれは、マルクスの『資本論』の展開において・同時に・この展開の背後のマルクスの論理をつかみとらなければならない。これは、われわれがマルクスの主体そのものをつかみとり・わがものとするということにほかならない。
マルクスは、貨幣所有者が資本家となるためには、彼は市場において、それの使用価値が価値の源泉であり、それの使用価値の消費が価値の創造であるような一商品、すなわち労働力を見いださなければならない、労働者がみずからの労働力を商品として売らなければならないのは生産手段をもっていないからである、と書いた。これを書いたマルクスは、労働者が労働の搾取を廃絶するためには、労働力を商品として売ることそのものを廃止しなければならない、そのためには、団結した労働者が生産手段を資本家から奪い取らなければならない、ということを意志し、もえたぎるこの熱情を貫徹したのである。このゆえにこそマルクスは、このように資本制生産様式をあばきだしたのである。われわれは、このようにつかみとる必要がある、と私は考えるのである。
したがって、われわれは、われわれが直接的現実を下向的に分析し・ほりさげ・あばきだすために適用するマルクスの理論、『資本論』の展開そのものをめぐって論議する必要がある、と私は思うのである。
