宇野弘蔵が、マルクスは単純商品生産者からなる一社会を想定した、とみなしたのはなぜか

宇野弘蔵が、マルクスは単純商品生産者からなる一社会を想定した、とみなしたのはなぜか

 

 宇野弘蔵は、次のように主張した。経済学原理論は、商品・貨幣・資本という流通形態にかんする論述からはじめるべきであって、冒頭の商品論においては商品の価値の実体について論じるべきではなく、価値の実体たる抽象的人間労働については、流通論の次の生産論において、生産過程における労働の問題として論じるべきである、と。

 彼は、このことを、『資本論』の冒頭の商品論は単純商品生産について論じたものなのか、それとも資本制商品生産について論じたものなのかというように、その理解をめぐって対立していたスターリン主義経済学者たちに対置したのであった。これは、宇野弘蔵スターリン主義者たちに足払いをくらわせ、彼らをステンと転ばせたものであるかのように見える。だが、実際には、宇野は、スターリン主義者たちの対立から身をかわしたのである。

 スターリン主義者たちの問題は、彼らがマルクスの思惟の営みを、すなわちマルクスが現実の労働から出発して・これをどのように下向的に分析したのかということを、まったくつかむことができないことにあった。宇野弘蔵は、タテにほりさげるというこの問題を、どの領域を論じるのかというものとして、理論領域という平面上のヨコの問題にずらしたのである。宇野もまた、マルクスがどのように下向的に頭をまわしたのかという思惟の問題を、すなわち『資本論』の叙述の背後のマルクスそのものを、つかみとることができなかったのである。

 宇野弘蔵は、マルクスを、単純商品生産者からなる一社会を想定して論じている、と批判した。

 たしかに、マルクスは、「生産者」という表現をつかっている。「生産者たちの背後で」というように、である。だが、この「生産者」は、単純商品生産者をさすのではない。現実の資本制商品経済からの下向的分析のどんづまりたる普遍的抽象のレベル、この理論的レベルでの論述の出発点において商品の価値を明らかにするためには、この商品は労働生産物であって、このものには一定の分量の労働がふくまれているということだけが問題なのであるからして、この生産物を生産した主体にかんしては「生産者」という抽象的規定をあたえることが必要なのである。

 宇野弘蔵は、下向的に抽象するというマルクスの思惟をつかみとることができなかった。これが、『資本論』の第一章第一、二節を、単純商品生産者からなる一社会を想定して論じている、と理解し、このような欠陥におちいらないためには、商品の価値の実体についてはここで論じないで、商品という形態だけを論じる、すなわち商品と商品との交換関係からのみ価値を論じる、とした根拠なのである。