マルクスが『資本論』で明らかにした労働にかんしては、これを生きた労働というように把握すべきではないか

マルクスが『資本論』で明らかにした労働にかんしては、これを生きた労働というように把握すべきではないか

 

 「実体」という概念と「担い手」という概念にかんしては、マルクスにしたがって、この両者を区別すべきではないか、ということを、私は提起した。この問題についてほりさげて考えていくためには、マルクスが「価値の実体」というように規定する・この「実体」の概念について考察していかなければならない。

 そうすると、マルクスの「価値の実体」という規定について考えていくためには、彼が、商品価値の実体は抽象的人間労働である、というところの、この労働について考察しなければならない、ということがわかる。なぜなら、私が『資本論』を読むと、商品に対象化されている労働、対象化された労働という意味において書いているところ(この表現そのものは『経済学批判』によく出てくる)も、私には、商品に対象化されているところの生きた労働、対象化されたところの生きた労働というように読めるのである。マルクスは、「労働」という概念をつかっているときには、それは、つねにかならず、生きた労働をさしている、と思われるのである。マルクスは、そのニュアンスをだすために、『経済学批判』における「対象化された労働」という概念に代えて、『資本論』では「労働凝結」という概念をもちいている、と思われるのである。

 くりかえしていうならば、マルクスが明らかにしている労働にかんしては、それを生きた労働として把握するということである。商品に対象化されている労働、対象化された労働ということは、商品に対象化されているところの生きた労働、対象化されたところの生きた労働というように把握する、ということである。死んだ労働ということは、死んだところの生きた労働というように把握する、ということである。その含意は、「対象化された」「死んだ」ということから、物と化したという意味をとりさる、ということである。労働は自然物と結合しないことには物とはならないのである。生産物は労働者がみずからの労働力を自然物に対象化することによってうみだされるのであって、生産物に対象化されている労働とは、労働者のこの対象化行為そのものをさすのである。労働が物と化したのではないのである。

 われわれとしては、実際には、「商品に対象化されている労働」とか「対象化された労働」とかという規定をごく普通に使えばいい、ということである。商品の価値は、商品を生産するために社会的に必要な労働時間によって規定される、というマルクスの規定をごくすなおに理解すればいい、ということである。この規定を理解するためには、労働している場面を想像しなければならないからである。商品体という物をいくらひっかきまわしても、労働時間は出てこないからである。

 このように把握すべきではないだろうか。