スターリン主義者による『資本論』の冒頭の商品論の単純商品生産論的解釈に孕まれていたもの
戦後、スターリン主義経済学者たちは、『資本論』の冒頭の商品論の理解をめぐって論争した。ある者は、この冒頭の商品にかんして、単純商品生産にかんして展開しているものとして解釈し、他のものは、資本制商品生産にかんして論述されているものとして解釈した。
ともに、現にある具体的な商品にかんして、しかもこの商品の生産にかんして論じられている、と解釈したことがその特質をなす。
単純商品生産について論じられていると解釈した者たちが主流であった。彼らがそう解釈したのは、「資本」という概念も「資本家」や「労働者」という概念も、もっと後になってからでないと出てこないからである。こうであることからして、彼らは、資本制生産よりも歴史的に以前のことが論じられている、と解釈したのである。
彼らは、具体的な生産過程が論じられている、と理解したことにもとづいて、マルクスは、当該の商品がその種類の商品として生産されるところの最終段階の生産過程を想定して論じているのだ、と解釈した。そして困った。マルクスは、生産手段から生産物への価値の移転を論じていない、これをどうすればいいのか、と。この問題にたちいった論者は、マルクスは、生産手段の価値をゼロとしているのだ、とみなした。そして、単純商品生産のような生産がまだ発達していない段階では、生産手段の価値はそれほど大きくないので、ゼロとみなしていいのだ、とこじつけた。
このような苦労をするのは、こうした論者は、マルクスが、現実の資本制商品経済から出発して、これを下向的に分析し、この下向のどんづまりにおいて、すなわち、普遍的抽象のレベルにおいて論じているのだ、ということをつかみとることができないことにもとづく。
他の商品との関係においてある商品、この商品にふくまれている労働にかんしては、この商品が生産されるにいたる生産のどの段階で費やされ蓄積されてきたものなのか、というようなことは捨象されているのである。いま、この商品にふくまれている労働だけが問題なのである。
このように考えるならば、マルクスが商品の生産の過程を論じているのだ、というような理解はでてきようがないのである。
また、当該の商品の使用価値の種類にかんしても、いま上着の形態をとっているけれども、その前は布地であった、その前は糸であった、その前は綿花であった、というようなことは一切捨象されているのであって、そういうことを問う必要はないのである。
こういう生産の諸段階というようなことを想定したばあいには、スターリン主義経済学者は、上着の使用価値を論じるのはまだいいとしても、上着の価値を論じるのに布地の価値をゼロとするというのは、苦しまぎれであったにちがいない。単純商品生産だから、布地も自分で作っていたのだ、というようなこじつけを考え出す以外になくなるのである。
これにたいして、マルクスが論じているのは資本制生産過程で生産された商品だ、と理解する論者は、マルクスが『資本論』の第三巻で論じている市場価値論をもちだすのである。ある生産部門において技術性の高位・中位・低位という三つの資本を想定し、この部門の商品の価値は、中位の資本の生産物によってきまる、というように論じるのである。
これもまた、マルクスがどのように思惟したのかということ、すなわちマルクスが普遍的抽象のレベルにおいて論じたのだ、ということを何らつかみとっていないものである、といわなければならない。
だが、マルクスが『資本論』の第一章の第一、二節において何をどのように論じているのかをつかみとることは難問であった。