商品の価値の規定は、対象化された労働を生きた労働との関係において考察しないことには明らかにできない
商品の価値の実体としての、この商品にふくまれている労働、この労働の量は、この対象化された労働を、この商品が生産される過程との関係において考察することをとおして明らかにすることができるのである。
マルクスは次のように論述している。
「ある使用価値の価値の大いさを規定するものは、社会的に必要な労働の分量、または、その使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間に他ならない。」(マルクス『資本論』第一部、青木書店、120頁)
これが、商品の価値の規定である。
ここで、「その使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間」という表現に端的にしめされるように、マルクスは、商品にふくまれている労働の分量を明らかにするために、この商品が生産される過程をふりかえっているのである。商品に対象化されている労働の分量を明らかにするためには、その商品の生産のために社会的に必要な労働時間を測らなければならない。その労働時間を測るためには、その労働の遂行過程を見なければならない。
「その使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間」という規定をみちびきだすためには、こういう推論が必要なのである。
「社会的に必要な」ということを明らかにするために、マルクスはこの規定の前に次のように論じている。
「諸価値の実体をなす労働は、同等な人間的労働であり、同じ人間的労働力の支出である。商品世界の諸価値で表示される社会の諸労働力は、無数の個人的諸労働力から成立っているとはいえ、このばあいには一個同一の人間的労働力として意義をもつ。これらの個人的な諸労働力は、いずれも、それが社会的な平均労働力たる性格をおび、かかる社会的な平均労働力として作用し、したがってまた、一商品の生産において平均的に必要な・または社会的に必要な・労働時間を要するにすぎぬ限りは、他と同じ労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間である。」(マルクス、同前)
これは、マルクスが、自分は資本制生産様式を、その普遍的抽象のレベルにおいて論じているのだ、ということを明らかにしているものにほかならない。マルクスが、自分が論じている抽象のレベルを明らかにしているのは、「全商業世界を一国とみなす」という一句につきるのではない。彼は、ことあるたびごとに、そのことを表明しているのである。
「商品世界の諸価値で表示される社会の諸労働力は」「一個同一の人間的労働力として意義をもつ」という言葉は、普遍的抽象のレベルである、ということを明らかにする端的な表現なのである。それは<全=個>ということをあらわしているのだからである。
しかも、マルクスは、自分のいう労働時間は、どのような物質的諸条件=主客諸条件のもとでの労働の遂行に妥当するのか、ということをも明らかにしているのである。「現存の社会的・標準的は生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間である」、という規定が、それである。この言葉それ自体が、自分がいま論じているのは普遍的抽象のレベルにおいてなのだ、ということを明らかにしているものなのである。