マルクスの『経済学批判』における労働の規定と「実体」という概念

マルクスの『経済学批判』における労働の規定と「実体」という概念

 

 マルクスは『経済学批判』において、「対象化されている労働」「対象化された労働」という概念を多く使用している。われわれは、これの内実がどのようなものであるのか、ということを検討することが必要である。

 マルクスは言う。

 「これらにひとしく対象化されている労働は、それ自体、同じ形の、無差別な、単純な労働でなければならない。」(『経済学批判』武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳、岩波文庫、24頁)

 「交換価値の実体を形成するかの単純な、一様の、抽象的一般的労働の、あるいは大きいあるいは小さい量を表示している。そこでこれらの量をどうしてはかるかが問題になる。というよりむしろ、こういう労働の量的定在は何であるかが問題になる。なぜならば、交換価値としての諸商品の大きさの差異は、それらのうちに対象化された労働の大きさの差異にすぎないからである。運動の量的定在が時間であるように、労働の量的定在は労働時間である。労働の質をあたえられたものとして前提するならば、労働そのものの継続時間の差異が、ありうる唯一の差異である。労働は、労働時間としては、時間、日、週等の自然的な時間尺度をその尺度としている。労働時間は、労働の形態、内容、個性に無関係な、労働の生きた定在である。それは量的であるとともに、その内在的尺度をもつ労働の生きた定在である。商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。」(25頁——下線は原文では傍点)

 ここで、マルクスは、「対象化されている労働」「対象化された労働」の労働にかんして、「生きた定在」と言っているように、そして「労働そのものの継続時間」と言い、労働の自然的な内在的尺度が時間である、と言っていることに見られるように、この労働を生きた労働というように捉えているのである。「対象化されている労働」とは、このような労働が対象化されている、という意味なのである。ここには、対象化され物と化した労働というような捉え方は微塵もないのである。ここでは、このことを確認しておけばよいであろう。ここでは、マルクスは「対象化されている労働」「対象化された労働」と表現するときに、この「労働」にどのような意味をこめているのかということを見たわけなのである。

 さらに、「実体」という概念にかんして、これを、マルクスは「交換価値の実体を形成する」とか「商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体である」とかというようにつかっているのである。この実体とは何か、というように問えば、それは、「単純な、一様の、抽象的一般的労働」ということであり、それと同じことであるが「対象化された労働時間」ということである。われわれは、このことを確認することができる。

 もしも、交換価値の担い手は何であるのか、というように問えば、それは使用価値である、すなわち、それは商品体そのものである、ということになる。マルクスは、「実体」という概念に、使用価値を交換価値という社会的定在たらしめるものという意味をこめているのだ、ということがわかる。すなわち、商品を商品たらしめる実体という把握である。