ライオンも狩りをする。ましてや人間は。

ライオンも狩りをする。ましてや人間は。

 

 魚も鏡で自分がわかる。

 ライオンも狩りをする。

 ましてや人間は。

 私には、人間と動物とは密接につながっている、という気がする。人間は、労働する主体である、という点において動物と区別される、というのはそうであろう。だが、人間は、意識をもっている、という点において動物と区別されるのかどうかというと、どうも違うような気がする。動物は、人間のように言語を駆使するというような意識はもってはいない。だが、動物は、人間にそれなりに匹敵するような意識をもっている、という気が、私にはするのである。

 人間は、ぼやぼやしていると動物に負けてしまう、という気がするのである。人間は、堕落することもできるという、動物にはない・優れた特性をもっているからである。

 ライオンは、草原の場において、本能につきうごかされつつ、シマウマをどのようにして捕るのかを、言語体なしの即自的概念のようなものをつかって構想し、仲間に伝えあい、見つけたシマウマを包囲し、追いつめていく。これは、ただ本能につきうごかされているだけの、蜂が巣をつくるのとは異なるものである。

 人間は、対象的現実に面々相対して、これをどのように変革するのかという目的と手段の体系を構想し、おのれのこの意志にのっとって実践する。だが、同時に、自覚的に共同体的存在である人間は、対象的現実を変革するという実践的立場を喪失し、現実の動きに、波間にただよう木の葉であるかのように、身をゆだねていることもできる。他者に依存しているだけでいることもできる。自己否定の立場=自己変革の立場を失い、対象的現実を変革しうる主体へとみずからを変え訓練し鍛えあげていくことをかなぐり捨て、現状の自己に安住していることもできる。これらはすべて、人間が共同体的に自覚的存在であることにもとづくのであり、共同体的に自覚的であるということは、他面では同時に、これを反転させて、みずからを疎外することができる、ということでもあるからなのである。

 動物は、けっして、疎外された社会を創造することはない。また、けっして、特定の一個体が、その動物種の集合体に自分を埋没させ、他の個体に依存することはない。すべてのそれぞれの個体は、あらかじめ、その動物種の集合体に埋没した存在であるからである。