ホンダ、中国をEVの生産・輸出拠点とする企業戦略を発表

ホンダ、中国をEVの生産・輸出拠点とする企業戦略を発表

 

 

 ホンダは、中国を、EV(電気自動車)および水素で走るFCV(燃料電池車)の販売市場とするだけではなく、世界市場への生産・輸出拠点とするという企業戦略「中国電動化戦略」を発表した。

 中国にEVの専用工場を二つ新設し、2024年の稼働の開始をめざす。このEVに積載するバッテリーは、中国の電池企業との協業で生産する。生産したこの車を中国で販売するだけではなく、世界に向けて輸出する。これが、中国にEVの生産拠点を構築するホンダの構想の中身である。

 中国は、これまでホンダの世界での販売の4割弱を占めてきた。この強みを活かす、というのがホンダの狙いである。

 すでに、アメリカのEVの先端企業であるテスラは、上海工場を世界市場への「輸出ハブ(中枢)」とするという方針を掲げている。

 ここから見えてくるものは、自動車独占体は、EVやFCVの生産を強化しつつ、車の生産体制そのものの軸足を中国に徐々に移していく、ということである。車の自国内での生産の重しがトヨタなどよりも相対的に少ないホンダやテスラがその先端を切った。トヨタや日産も、世界市場においてうちかつために、同様の方向を狙っているといえる。

 日本の自動車諸独占体は、脱炭素のもろもろの種類の車の生産を強化し拡大するために、従来のガソリン車の生産のための諸設備を直接的に廃棄し、そこで働いていた労働者たちを退職に追いこむとともに、膨大な下請け・孫請け企業群を切って捨てる、ということを目論んでいるのである。

 このような攻撃を許してはならない。

 このような攻撃をうち砕くために、全世界の労働者たちは団結してたたかおう!

 

日本の自動車独占体、商用EV市場で競合もなく中国勢に敗北

日本の自動車独占体、商用EV市場で競合もなく中国勢に敗北

 

 中国の自動車企業が、日本への商用のEV(電気自動車)の輸出攻勢をかけている。東風グループなどが1万台という調子である。トヨタ・日産などの日本の自動車独占体は、EVの開発と生産が遅れており、競合することもなく敗北している。宅配部門などの日本の諸企業は、安くて使える、というので、中国の諸企業から、商用EVをどんどん輸入しているのである。

 また、東南アジアの自動車市場でも、日本の諸独占体は中国勢などに押しまくられつつある。これまでは、東南アジアの自動車市場は、日本メーカーが8割のシェアを誇り、「日本車王国」と呼ばれてきた。タイを筆頭にしてこれが脅かされているのである。これもまた、EVのゆえである。

 脱炭素のために、諸独占体は、自企業の、したがって自産業の再編をしゃにむにおしすすめている。彼らは、自企業の利益を上げ、他企業を蹴落とし自企業がのしあがるために、これまでの部門で働いていた労働者たちを退職に追いこむのをものともせず、あらゆる犠牲を労働者たちに強いて、この再編をおしすすめているのである。

 全世界の労働者たちは、このような攻撃をうち砕くために、国際的に階級的に団結しよう!

 

〔20〕 賃金――労働力の価値の労働の価格への転形

 〔20〕 賃金――労働力の価値の労働の価格への転形

 

 

 マルクスは『資本論』第一巻の「第六篇 労賃 第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転形」において、労賃すなわち賃金について論じている。

 その章は次の言葉をもってはじまる。

 「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃銀は、労働の価格・一定分量の労働に支払われる一定分量の貨幣・として現象する。」(『資本論』第一巻、長谷部訳、青木書店版、八三九頁)

 労働者の賃金は、現実には、この労働者の労働が終わった後で、すなわち生産過程が終了したうえで支払われる。ここにおいては、この賃金は、この労働に支払われるものとして、すなわち労働の価格として現象する。

 ここで、この生産過程がはじまる前の事態をふりかえろう。

 生産過程の前提をなす商品=労働市場において、資本家の幼虫をなす貨幣所有者は、みずからの貨幣を投じて、生産手段とともに労働者の労働力を商品として買い入れたのであった。ここにおいて、労働者には、商品である労働力の価値どおりに貨幣が支払われる。だから、労働者が受け取る貨幣である賃金は、労働力商品の価値の貨幣的表現をなす。

 ところが、現実には、この労働力商品の使用価値が、生産手段のそれとともに消費される過程をなす生産過程が実現されたあとになって、労働者に賃金が支払われる。こうすることによって、このような賃金すなわち労賃の形態は、必要労働と剰余労働とへの、支払い労働と不払い労働とへの、労働日の分割のあらゆる痕跡を消滅させる。このようなものとして、この形態においては、すべての労働が支払われたものとして現象するのである。

 すなわち、賃金は本質的には前払いなのであるが、現実的には後払いの形態をとる。こうすることによって、労働力の価値は労働の価格に転形するのである。この労働の価格は仮象をなす。

 労働の価格は仮象実在をなすのであるが、労働の価値は非実在である。賃金を「労働の対価」というように捉えるのは、仮象にとらわれた把握なのであり、それはブルジョア的観念にほかならない。

 われわれは『資本論』に学び、賃金にかんして、このことを見ぬくことが肝要なのである。

 

〔19〕 生産された商品の価値構成と生きた労働

 〔19〕 生産された商品の価値構成と生きた労働

 

 

 マルクスは「第七章 剰余価値率」において次のように展開している。

 「剰余価値は、v、すなわち労働力に転態された資本部分について起る価値変動の結果にすぎず、かくしてv+m=v+Δv(vプラスvの増加分)である。」(『資本論』長谷部訳、青木書店版、三八〇頁)

 「労働力の購入に投下された資本部分は、一定分量の対象化された労働であり、かくして、購買された労働力の価値と同じく不変の価値量である。だが、生産過程そのものにおいては、投下された90ポンドのかわりに自らを実証しつつある労働力が現われ、死んだ労働のかわりに生きた労働が現われ、静止量のかわりに流動量が現われ、不変量のかわりに可変量が現われる。その結果は、vの再生産プラスvの増加分である。資本制的生産の立場からすれば、この全過程は、労働力に転態された・本源的には不変な・価値の自己運動である。過程、したがってその結果は、まったくこの不変的価値について生ずるのである。だから、90ポンドの可変資本すなわち自己を増殖する価値という範式は、たとえ矛盾だらけに見えようとも、それは、ただ、資本制的生産に内在する矛盾の一つを表現するにすぎない。」(同、三八一頁)

 生産過程においては、投下された不変の価値量のかわりに自らを実証しつつある労働力が現われ、死んだ労働のかわりに生きた労働が現われ、静止量のかわりに流動量が現われ、不変量のかわりに可変量が現われる、ということを、われわれの頭に焼きつけるように、マルクスは明らかにしている。われわれはこのことをつかみとらなければならない。

 生産された商品の価値構成を、このこととの関係において、次のように把握することが必要である。

 生産過程の結果を見るならば、生産された商品の価値は――この価値をWと表記すれば―― W=c+v+m とあらわすことができる。ここで、 c は、生産手段から生産物に移転された価値部分・すなわち・不変資本部分をあらわす。 v は、資本家が労働力の購入に投下した資本の価値の取戻し部分・すなわち・労働力の価値に該当する部分をあらわす。この v が、可変資本部分と呼ばれるのである。 m は、価値の増殖によって増加した価値部分・すなわち・剰余価値をあらわす。

 生産過程における生きた労働は、すなわち、いままさに発現しつつある労働力は、価値増殖そのものなのであり、可変量としての可変資本なのであって、この可変量としての可変資本によって生みだされた結果としての価値から、労働力の価値に該当する価値量を差し引くならば、価値の増加分が得られるのであり、これが剰余価値と規定されるのである。われわれがこのようにしてつかみとった結果をなす内容を端的に表現するならば、可変量としての可変資本は、 (c+v) 部分を、すなわち、可変資本部分と剰余価値との和をなす量の価値を生みだした、というように言うことができるのである。

 可変量としての可変資本によって生みだされた価値は、あらかじめ可変資本部分と剰余価値とに分かれているわけではない。ましてや、生産過程において、労働力の価値とそれを超えるところの剰余価値とが生みだされる、というように考えるのは、結果解釈主義的誤謬である。可変量としての可変資本によって生みだされた価値から労働力の価値に該当する価値量を差し引く、という計算をとおして明らかとなるその増加分が剰余価値をなすのである。

 生みだされた価値が労働力の価値に該当する部分と剰余価値とに分かれるという結果から、価値増殖の過程、すなわち生産過程を捉えかえすならば、労働日は、資本家によってすでに支払われた労働力の価値にたいする等価を生産する部分と剰余価値を生産する部分とに分かれる、といえる。労働日のうち前者の部分を必要労働時間、そしてこの時間内に支出される労働を必要労働というように、また、労働日のうち後者の部分を剰余労働時間、そしてこの時間内に支出される労働を剰余労働というように、マルクスは名づけたのである。

 このように捉えるならば、剰余価値の可変資本部分にたいする比率は、剰余労働の必要労働にたいする比率に等しいのであり、この比率、すなわち、 m/v=剰余労働/必要労働 を、マルクス剰余価値率と規定したのである。この剰余価値率は、資本による労働力の、だから資本家による労働者の、搾取度を正確にあらわすのである。

 

〔18〕 直接的生産過程の分析にたちもどる――生きた労働の二面的性格

 〔18〕 直接的生産過程の分析にたちもどる――生きた労働の二面的性格

 

 われわれは、『資本論』の最初に展開されている商品の諸規定について学んできた。ここで、その前に学習したところの、直接的生産過程の分析にたちもどろう。

 われわれは、商品の二要因たる使用価値と価値について、そして商品に含まれている労働の二重性格、すなわち具体的有用労働と抽象的人間労働について、つかみとったことからして、この把握にふまえて、直接的生産過程の諸規定についてより深く学ぶことができる。

 資本の直接的生産過程は、労働過程と価値増殖過程との直接的統一をなすのであった。

 この直接的生産過程について、マルクスは、『資本論』の第一巻第四篇第六章の「不変資本と可変資本」において、さらに次のように論じている。

 「労働過程の相異なる諸要因は、生産物価値の形成に相異なる関与をなす。

 労働者は、彼の労働の一定の内容・目的・および技術的性格のいかんに拘わらず、ある一定分量の労働を附加することにより、労働対象に新たな価値を附加する。他方において、吾々は、消耗された生産諸手段の価値を生産物の価値の構成部分として、――たとえば棉花と紡錘との価値を糸価値のうちに、――ふたたび見出す。かくして、生産手段の価値は生産物へのそれの移譲によって維持される。この移譲は、生産手段の生産物への転形中に,すなわち労働過程において行われる。それは労働によって媒介されている。では、如何にしてであるか?

 労働者は同じ時に二重に労働するのではない。……労働対象への新価値の附加と生産物における旧価値の維持とは、労働者が同じ時には一度しか労働しないにも拘わらず同じ時に生ぜしめる二つの全く相異なる成果であるから、成果のこの二重性は、明らかに、彼の労働そのものの二重性からのみ説明されうる。同じ時点において、彼の労働は、一の属性では価値を創造し、他の属性では価値を維持または移譲しなければならぬ。

 ……労働者が消費された生産手段の価値を維持するのは、または、それを価値構成部分として生産物に移譲するのは、彼が労働一般を附加することによってではなく、この附加的労働の特殊的・有用的性格によってであり、その独自的・生産的形態によってである。かかる合目的的な生産的活動――紡績・機織り・鍛冶――としては、労働は、それの単なる接触によって諸生産手段を死から蘇生させ、それらを鼓舞して労働過程の諸要因たらしめ、それらと結合して諸生産物となるのである。

 ……彼が彼の労働によって価値を附加するのは、その労働が紡績労働または指物労働であるかぎりにおいてではなく、それが抽象的・社会的な労働一般であるかぎりにおいてであり、また彼が一定の大いさの価値を附加するのは、彼の労働がある特殊的・有用的な内容を有するからではなく、それが一定の時間つづけられるからである。だから紡績工の労働は、それの抽象的・一般的属性においては、人間的労働力の支出としては、棉花と紡錘との価値に新価値を附加するのであり、紡績過程としてのそれの具体的・特殊的・有用的属性においては、それは、これらの生産手段の価値を生産物に移譲し、かくして、それらの価値を生産物において維持する。同じ時間における労働の成果の二面性はこうして生ずるのである。

 労働の単に量的な附加によって新価値が附加され、附加された労働の質によって生産手段の旧価値が生産物において維持される。同じ労働の――それの二面的性格の結果たる――この二面的作用は、種々の現象のうえに手にとるように現れる。」(『資本論』青木書店版、長谷部文雄訳、三六一~六三頁)

 ここで、資本の直接的生産過程における労働の二面的性格、すなわち、この労働の具体的・特殊的・有用的属性と、この労働の抽象的・一般的属性とは、〈質と量〉という対概念によって規定されている。「労働の単に量的な附加」と「附加された労働の質」というように、である。

 ここに言う労働の二面的性格については、これを、われわれは『資本論』の第一章の第二節で論じられた労働の二重性――すなわち、商品で表示される労働は具体的有用労働と抽象的人間労働との二重性格をもつということ――と明確に区別してつかみとらなければならない。

 なぜなら、後者は、商品に対象化された労働=商品に含まれている労働=商品で表示される労働の規定であるのにたいして、前者は、直接的生産過程において労働力の対象化として、いままさに対象化されつつあるところの労働、この生きた労働の規定なのだからである。

 いいかえるならば、後者は、他の商品と関係をとりむすんでいる商品、すなわち、生産された結果としてすでに現存在しているところの商品、この商品を分析するという商品論に位置する規定であるのにたいして、前者は、商品を生産する過程を過程的にあきらかにするという資本の生産過程論に位置する規定である、というように、両者は『資本論』体系における位置が異なるのである。この体系上の位置の相違ということを、われわれは明確におさえなければならないのである。

 われわれは、このような、生きた労働の二重性を把握することを基礎にして、不変資本および可変資本の規定をつかみとらなければならない。

 資本の直接的生産過程における客体的契機をなす生産手段と、その主体的契機をなす生きた労働とは、資本の定有をなす。

 資本のうち、直接的生産過程において生産手段という姿態をとるところのものが不変資本と規定され、生きた労働という姿態をとるところのものが可変資本という規定をうけとるのである。あるいは、投下資本との関係において把握するならば、資本のうち生産手段に転態するものが不変資本と規定され、生きた労働に転態するものが可変資本と規定される、というように言うことができる。

 

フィリピン労働者家族が住んでいた家、その後

その後の家

 

フィリピン労働者数家族が住んでいた

彼らはどこかへ行ってしまった

家だけがそのまま残されている

 

f:id:X2417:20210923093305j:plain

 

〔17〕 商品A=商品B――価値鏡

 〔17〕 商品A=商品B――価値鏡

 

 

 「x商品A=y商品B すなわち、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。」(長谷部訳、青木書店版、一三四頁)

 「あらゆる価値形態の秘密は、この簡単な価値形態のうちに潜んでいる。だから、これの分析は本来的な困難を呈する。」(同前)

 マルクスはこう読者をおどす。『資本論』を学ぶわれわれはこの困難をひきうけなければならない。

 商品Aは商品Bをみずからに等置する。こうすることによって、商品Aはみずからの価値を商品Bで表現する。商品Bは商品Aの価値鏡となる。すなわち、商品Bの体そのものが、つまり商品Bの使用価値が、この価値表現の材料となるのである。

 第一の商品は能動的役割を演じるのであり、この商品は相対的価値形態にあると規定され、第二の商品は受動的役割を演じるのであり、この商品は等価形態にあると規定される。

 二つの商品の価値関係のうちには次のことが潜んでいる。

 商品Aが商品Bをみずからに等置することによって、二商品の使用価値の種類の相違が消失し、価値として等質なものとなる、とともに、これらの商品にふくまれている労働の種類の相違が消失し、質的に等しいものとなる。このように、商品Aが商品Bをみずからに等置することによって、商品Aの自然的形態と区別されるそれの価値存在が現出するのであり、これと同時に、商品Bが価値の実存形態として意義をもつのである。このようにして、前者の商品の価値が後者の商品の体で表現されるのである。

 これが、価値関係の質的側面の考察なのであり、このような質的側面の分析に立脚してその量的側面を・すなわち・等置された二商品の量的な比率の問題を、明らかにしなければならない、とマルクスはのべているのである。

 マルクスは言う。

 「かくして、価値関係に媒介されて、商品Bの自然的形態が商品Aの価値形態となる。あるいは、商品Bの体(からだ)が商品Aの価値鏡となる。商品Aは、価値体としての・人間的労働の物質化(マテリアツール)としての・商品Bに連関することによって、使用価値Bをば、それ自身の価値表現の材料たらしめる。商品Aの価値は、かように商品Bの使用価値で表現されることによって、相対的価値の形態をとるのである。」(一四一頁)

 これが、かの有名な「価値鏡」のくだりである。

 こうして、商品の使用価値と価値との内的対立は、次のような外的対立としてあらわれる、ということを、マルクスは明らかにしている。

 「商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立入って考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの自然的形態は使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの自然的形態は価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということが分かった。かくして、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一の外的対立によって、すなわち二つの商品の関係――そこでは、それの価値が表現されるべき一方の商品は直接には使用価値としてのみ意義をもち、それで価値が表現される他方の商品はこれに反して直接には交換価値としてのみ意義をもつところの、二つの商品の関係――によって、表示される。かくして、一商品の簡単な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の簡単な現象形態である。」(一五五頁)

 価値形態の論理的発展・すなわち・貨幣の論理的発生史にかんするマルクスの解明を理解するためには、以上のその出発点の考察をつかみとることが肝要なのである。