〔20〕 賃金――労働力の価値の労働の価格への転形

 〔20〕 賃金――労働力の価値の労働の価格への転形

 

 

 マルクスは『資本論』第一巻の「第六篇 労賃 第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転形」において、労賃すなわち賃金について論じている。

 その章は次の言葉をもってはじまる。

 「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃銀は、労働の価格・一定分量の労働に支払われる一定分量の貨幣・として現象する。」(『資本論』第一巻、長谷部訳、青木書店版、八三九頁)

 労働者の賃金は、現実には、この労働者の労働が終わった後で、すなわち生産過程が終了したうえで支払われる。ここにおいては、この賃金は、この労働に支払われるものとして、すなわち労働の価格として現象する。

 ここで、この生産過程がはじまる前の事態をふりかえろう。

 生産過程の前提をなす商品=労働市場において、資本家の幼虫をなす貨幣所有者は、みずからの貨幣を投じて、生産手段とともに労働者の労働力を商品として買い入れたのであった。ここにおいて、労働者には、商品である労働力の価値どおりに貨幣が支払われる。だから、労働者が受け取る貨幣である賃金は、労働力商品の価値の貨幣的表現をなす。

 ところが、現実には、この労働力商品の使用価値が、生産手段のそれとともに消費される過程をなす生産過程が実現されたあとになって、労働者に賃金が支払われる。こうすることによって、このような賃金すなわち労賃の形態は、必要労働と剰余労働とへの、支払い労働と不払い労働とへの、労働日の分割のあらゆる痕跡を消滅させる。このようなものとして、この形態においては、すべての労働が支払われたものとして現象するのである。

 すなわち、賃金は本質的には前払いなのであるが、現実的には後払いの形態をとる。こうすることによって、労働力の価値は労働の価格に転形するのである。この労働の価格は仮象をなす。

 労働の価格は仮象実在をなすのであるが、労働の価値は非実在である。賃金を「労働の対価」というように捉えるのは、仮象にとらわれた把握なのであり、それはブルジョア的観念にほかならない。

 われわれは『資本論』に学び、賃金にかんして、このことを見ぬくことが肝要なのである。