〔16〕 価値形態――貨幣形態の論理的な発生史・すなわち・価値形態の発展の論理的解明

 〔16〕 価値形態――貨幣形態の論理的な発生史・すなわち・価値形態の発展の論理的解明

 

 

 『資本論』の「第一部 資本の生産過程」「第一編 商品と貨幣」「第一章 商品」において「第一節 商品の二要因――使用価値と価値」「第二節 商品で表示される労働の二重性格」が論じられた後の「第三節」において「価値形態または交換価値」が論じられる。

 価値形態について論述するにあたって、マルクスは次のようにのべている。

 「吾々は実際、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を発見した。いまや吾々は、価値のこの現象形態にたち戻らねばならぬ。」(長谷部訳、青木書店版、一三三頁)と。

 マルクスのこの言葉を方法論的に咀嚼(そしゃく)するならば、彼は次のようにのべているのだ、といえるであろう。

 商品A=商品Bという二商品のこの交換関係を措定して、他の商品と交換関係をとりむすんでいるところの商品、この商品の二要因、および、この商品に対象化されている労働の二重性格をわれわれは分析してきた。いまや、商品A=商品Bという価値の現象形態そのものを分析しなければならない、と。

 記号的に表現すれば、第一、二節は、商品A(=商品B)というかたちで、商品Bとの関係においてある商品Aの分析であったのであるが、第三節は、商品A=商品Bというこの現象形態そのものの分析である、ということである。

 マルクスは、この価値形態を分析する意義と意味を次のように明らかにしている。

 「誰でも、他のことは何も知らなくても、諸商品がそれらの諸使用価値の種々雑多な自然的諸形態ときわめて著しい対象をなす一の共通な価値形態――貨幣形態――をもつということは、知っている。だが、ここで肝要なことは、ブルジョア経済学によっては嘗て試みられなかったこと、すなわち、この貨幣形態の発生史を証明すること――つまり、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、それの最も簡単な最もみすぼらしい姿態から、絢爛たる貨幣形態までたどること――をなし遂げることである。それによって貨幣の謎も消滅する。」(同前)

 マルクスがここに言う「貨幣形態の発生史」とは、貨幣形態の論理的な発生史であって、それの歴史的な発生史ではない。彼がなしとげたのは、価値形態がそれの最も簡単な姿態から貨幣形態へとどのようにして論理的に発展したのかということの論理的解明である。彼は、物々交換から貨幣がどのようにしてうみだされたのかということの人間の歴史をたどったのではないのである。

 

〔15〕 商品およびこれにふくまれている労働の質的側面と量的側面――「質」という規定について

 〔15〕 商品およびこれにふくまれている労働の質的側面と量的側面――「質」という規定について

 

 

 マルクスは、商品の使用価値および価値を、商品の質的側面および量的側面と規定している。それとともに、商品の使用価値の実体をなす具体的有用労働および商品の価値の実体をなす抽象的人間労働を、商品にふくまれている労働の質的側面および量的側面と規定している。ともに、〈質と量〉という対概念でもって規定しているのである。

 マルクスは次のように論じている。「商品に含まれている労働は、使用価値に関連しては質的にのみ意義をもつが、価値の大いさに関連しては、それが質のどんづまりたる人間的労働に還元されているので、量的にのみ意義をもつ」(長谷部訳、青木書店版、一二九頁)、と。

 『資本論』の商品論において、前者の側面つまり具体的有用労働にかんしては、「質的に相異なる有用的労働」「労働の相異なる諸々の質」「種類を異にする諸商品のうちに含まれている・種類を異にする・労働」というように規定されているのであって、この表現に端的にしめされるように、マルクスは「質」という概念をもちいて「質的に相異なる」と表記するばあいには、つねにかならず、「種類を異にする」ということを含意しているのであり、商品にふくまれている労働の多種多様性を、すなわち、具体的有用労働は多種多様であるということを、言いあらわしているのである。

 

〔14〕 商品の価値の大いさ

 〔14〕 商品の価値の大いさ

 

 

 ある商品が他の商品をみずからに等置することによって、これらに対象化されている労働の有用的性格は消失し、これらの労働は等質なものとなる、すなわち価値の実体として抽象的人間労働という規定をうけとる、とともに、それぞれの商品に対象化されている労働の量すなわち抽象的人間労働の量は等しいものとして措定される。

 このような考察に立脚して、マルクスは次のように規定している。

 「ある使用価値の価値の大いさを規定するものは、社会的に必要な労働の分量、または、その使用価値の生産のために社会的に必要な労働時間に他ならない。」(長谷部訳、青木書店版、一二〇頁)

 商品の価値の大いさは、この商品を生産するために必要な労働時間によって決定される、というこの規定は価値法則と呼ばれる。

 マルクスは、自分が書いた『経済学批判』から次の言葉を引用している。

 「価値としては、すべての商品は、一定分量の凝固した労働時間に他ならない。」

 私は、この「凝固した労働時間」という表現は、イメージがわく! と感じるのである。マルクス自身、読者である労働者にイメージをわかせるのにこの表現がうってつけだ、とおもって自分の本から引用したのではないか、と私には感じられるのである。

 これは、商品のうちに凝固した労働時間が交換関係を媒介として価値という規定をうけとる、ということにほかならない。

 このことを、その物質的基礎をなすところの商品を生産する過程との関係において捉えかえすならば、「社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間である」(同前)、と言える。

 「現存の社会的・標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって」というのは、この価値の規定は、資本制経済の普遍的本質論という理論的レベルにおいて、すなわち〈総資本=総労働〉という抽象のレベルにおいて明らかにしているものである、ということを、マルクスが言いあらわしたものなのである。

 

〔13〕 使用価値の実体と価値の実体――実体

 〔13〕 使用価値の実体と価値の実体――実体

 

 

 商品の実体はこれに対象化されている労働であり、商品に対象化されている労働は、使用価値の実体としては具体的有用労働と規定され、価値の実体としては抽象的人間労働と規定される。このように、商品に対象化されている労働=商品にふくまれている労働=商品で表示される労働は、二重性格をもつ。

 このことを理解するためには、実体という概念をつかみとることが必要である。

 或る商品は他の商品をみずからに等置する。こうすることによって、二商品の使用価値の種類の相違は消失するとともに、これらの商品に対象化されている労働の種類の相違も消失して等質化されかつ等しい量として措定される。

 このことについてマルクスは、次のように論じている。

 「20エルレの亜麻布=1枚の上着 であろうと、=20枚の上着 であろうと、=x枚の上着 であろうと、すなわち、ある与えられた分量の亜麻布が多くの上着に値しようと、僅かの上着に値しようと、あらゆるかかる比率は、つねに、亜麻布と上着とは価値の大いさとしては同じ単位の表現であり、同じ本性をもつ物であるということを、含んでいる。亜麻布上着 ということが、方程式の基礎である。

 しかも、質的に等置されたこの二つの商品は同じ役割を演ずるのではない。亜麻布の価値のみが表現されうるのだ。では、如何にしてか? 亜麻布がそれの『等価』あるいはそれと『交換されうるもの』としての上着に連関することによってである。この関係においては、上着は、価値の実存形態として・価値物として・意義をもつ、――けだし上着は、ただかかるものとしてのみ、亜麻布と同じものなのであるから。他方では、亜麻布それ自身の価値存在(ヴェルトザイン)が現出する、すなわち一の自立的表現を受けとる、――けだし亜麻布は、ただ価値としてのみ、同等な価値あるもの・あるいはそれと交換されうるもの・としての上着に連関しているのだから。たとえば酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし両者は、化学的実体(ズプスタンツ)――炭素(C)、水素(H)、酸素(O)から成りたち、しかも同等な化学的組成、すなわちCである。いまもし酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係においては、第一に、蟻酸プロピルはただCの実存形態としてのみ意義をもつであろう。そして第二に、酪酸もまたCから成りたつということが語られているであろう。かくして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、酪酸の化学的実体が、それの物体形態から区別されて表現されているであろう。」(長谷部文雄訳、青木書店版、一三六~三七頁)

 マルクスが「それらの労働が上着価値の実体および亜麻布価値の実体であるのは」(一二九頁)と言うばあいの「実体」、したがってここで「化学的実体」と言うばあいの「実体」は、――ルビがふられているように――「 Substanz ズプスタンツ」という語である。

 マルクスが「それ〔商品〕に含まれている『価値を形成する実体』すなわち労働の分量」(一一九頁)と言うときの『価値を形成する実体』は、「 wertbildenden Substanz 」と表記されており、「価値をかたちづくっているところの実体」というように理解することができるのであり、商品に対象化されている労働の一規定だ、ということがわかるのである。ちなみに、ドイツ語に精通している人に教えてもらったところによれば、 bilden というドイツ語の動詞(英語では build に相当する)には、「作る・形成する」という意味のほかに、「なしている」という意味もあるのだそうである。「価値を形成する実体」というばあいには後者の意味である、ということができる。

 これに反して、マルクスが生産過程論において、「価値形成過程(Wertbildungsprozess ヴェルト・ビルドゥンクス・プロツェッス)」というときの「形成」は、――商品という・生産された結果として現にあるところのものの規定ではなく、商品を生産する過程の規定なのであるからして、――「作る・形成する」という意味である、というように理解することができる。

 とにかく、「価値の実体」「価値をかたちづくっているところの実体」というようなことを考えて、実体という概念を論理的に把握することが肝要である。

 物理学者の武谷三男は、マルクスのこの実体という概念とこの実体にかんする論理的考察を基礎にして、人間の対象的認識は、現象論的段階――実体論的段階――本質論的段階という三段階をとって深まるのだ、ということを明らかにしたのであった。これが武谷三段階論と呼ばれるものである。

 われわれは、マルクスの『資本論』の展開の理解を深めるために、このようなことについても思いをはせる必要がある。

 この「ズプスタンツ=実体」という語のほかに「トレーガー=担い手」という語がある。マルクスは、資本制生産のもとでは「諸使用価値は」「交換価値の質料的担い手をなす」(一一五頁)と言うときの「担い手」としては「 Träger トレーガー」という語をもちいている。日本語では「実体」という語を「担い手」という意味においてもちいることがあるのであるが、日本語でも「価値の担い手」と言えば使用価値をさすことになってしまうし、「交換価値の質料的実体」とは言えない。このことにふまえて、「形態とその実体」ということにかんして、また「諸現象とそれを担う諸実体、本質的二実体と両者の本質的関係」ということにかんして、論理的にほりさげていかなければならない。

 

〔12〕 使用価値をゴジラ化して捉える誤謬――商品の使用価値と使用価値としての使用価値

 〔12〕 使用価値をゴジラ化して捉える誤謬――商品の使用価値と使用価値としての使用価値

 

 

 マルクスは使用価値について次のように書いている。

 「使用価値は、使用または消費においてのみ、みずからを実現する。諸使用価値は、富の――その社会的形態がどうあろうとも――質料的内容をなす。吾々によって考察されるべき社会形態においては、それは同時に、交換価値の質料的担い手をなす。」(長谷部訳、青木書店版、一一五頁)

 ここにおいて、マルクスは、富の社会形態を捨象してつかみとられるところの使用価値と、資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会すなわち資本主義社会における使用価値とを区別すべきことを明らかにしているのであり、後者を交換価値の質料的担い手をなす、というように規定しているのである。

 ところが、かつて、スターリンを信奉する人たち、すなわちスターリン主義者は、マルクスのこの論理的把握を論理的につかみとることができずに、次のように考えた。

 使用価値は、商品にも、商品ではない生産物にも、共通なものである、すなわちあらゆる社会に共通なものである。商品のばあいには、あらゆる社会に共通なものである使用価値に価値という形態規定が付け加わっているのである。いいかえれば、商品から価値という形態規定を取り去れば、使用価値というあらゆる社会に共通なものがえられるのである。――このように考えたのである。

 これは、さまざまな社会形態から共通なものを抽出するという考え方にもとづくものである。この考え方は、現実的なものを抽象して本質的なものをつかみとるという論理的な頭のまわし方、すなわち現実的なものから個別的および特殊的の諸契機を捨象して普遍的なものをつかみとるという論理的な分析の方法を、さまざまな現実的な諸形態からそれらに共通するものをとりだす、という単純な振り分けの論理、つまり共通するものと共通でないものとをふりわけるという論理に歪曲したものなのである。

 いいかえるならば、スターリン主義者のつかみ方は、使用価値を歴史貫通的なものとみなし、この使用価値に価値という衣がかぶさっている、というように捉えるものなのである。それは、使用価値を金太郎飴の金太郎のようにイメージするものだ、ということである。使用価値を歴史貫通的に捉えることを、使用価値を超歴史化して捉える、超階級化して捉える、というように呼称して、われわれはその克服をめざしてきたのである。このような超歴史的な捉え方は、映画の世界で、かつての恐竜を現代にゴジラとして蘇らせるようなものである。あるいは、巨大化した蛾の幼虫を現代にモスラとして登場させるようなものである。われわれはこのようなイメージをわかせて、この誤謬を、使用価値をゴジラ化して捉えるものである、使用価値をモスラ化して捉えるものである、というように呼んできたのである。

 この捉え方の論理的誤謬を、本質的なもの=一般的なものとそれが特殊的な諸条件のもとでとる現実形態との関係の論理的なつかみ方としてはどのように誤っているのか、というように考察するならば、次のようにいえる。

 ここで、人間生活の永遠的な自然条件としての労働過程すなわち労働過程一般と、直接的生産過程の一契機としての労働過程すなわち資本の労働過程との関係をつかみとるために私が提示した図解(この図解は黒田寛一が明らかにしたものであるが)を思い起こしてほしい。正―(反―正′)―合という図解である。

 資本主義社会における商品をゴシックの とおく。この商品 は使用価値と価値との直接的統一をなす。この使用価値を 正′ 、価値を 反 と記号的に表現することができる。この使用価値は商品 の一契機としての使用価値 正′ なのであり、価値 反 と統一された使用価値 正′ である。これが、吾々が考察すべき社会形態においては、使用価値は交換価値の質料的担い手をなす、というように、マルクスが明らかにしたところのものである。

 資本主義社会からその歴史的=階級的な規定性を捨象してつかみとられるところの社会の本質形態、この社会の本質形態における使用価値は、使用価値としての使用価値、すなわち使用価値一般と規定することができる。あるいは次のように言ってもよい。資本制商品からその歴史的=階級的な規定性を捨象するならば、生産物一般という規定がつかみとられる。この生産物一般は、使用価値としての使用価値、すなわち使用価値一般と規定することができる、ということである。

 この使用価値としての使用価値、すなわち使用価値一般は、この図解における 正 というように位置づけられなければならない。

 このように、われわれは、使用価値としての使用価値、すなわち使用価値一般 正 と、商品 の一契機としての使用価値 正′ 、価値 反 と統一されている使用価値 正′ 、つまり価値 反 の質料的担い手をなす使用価値 正′ とを明確に区別して把握することが必要なのである。

 スターリン主義者は、この使用価値一般 正 と、商品の使用価値 正′ とを、あらゆる社会に共通なものとして同一視してしまったのである。われわれは、このような共通性の論理を、この平板なつかみ方を、克服することが肝要なのである。

 

f:id:X2417:20210811161245j:plain