〔19〕 生産された商品の価値構成と生きた労働

 〔19〕 生産された商品の価値構成と生きた労働

 

 

 マルクスは「第七章 剰余価値率」において次のように展開している。

 「剰余価値は、v、すなわち労働力に転態された資本部分について起る価値変動の結果にすぎず、かくしてv+m=v+Δv(vプラスvの増加分)である。」(『資本論』長谷部訳、青木書店版、三八〇頁)

 「労働力の購入に投下された資本部分は、一定分量の対象化された労働であり、かくして、購買された労働力の価値と同じく不変の価値量である。だが、生産過程そのものにおいては、投下された90ポンドのかわりに自らを実証しつつある労働力が現われ、死んだ労働のかわりに生きた労働が現われ、静止量のかわりに流動量が現われ、不変量のかわりに可変量が現われる。その結果は、vの再生産プラスvの増加分である。資本制的生産の立場からすれば、この全過程は、労働力に転態された・本源的には不変な・価値の自己運動である。過程、したがってその結果は、まったくこの不変的価値について生ずるのである。だから、90ポンドの可変資本すなわち自己を増殖する価値という範式は、たとえ矛盾だらけに見えようとも、それは、ただ、資本制的生産に内在する矛盾の一つを表現するにすぎない。」(同、三八一頁)

 生産過程においては、投下された不変の価値量のかわりに自らを実証しつつある労働力が現われ、死んだ労働のかわりに生きた労働が現われ、静止量のかわりに流動量が現われ、不変量のかわりに可変量が現われる、ということを、われわれの頭に焼きつけるように、マルクスは明らかにしている。われわれはこのことをつかみとらなければならない。

 生産された商品の価値構成を、このこととの関係において、次のように把握することが必要である。

 生産過程の結果を見るならば、生産された商品の価値は――この価値をWと表記すれば―― W=c+v+m とあらわすことができる。ここで、 c は、生産手段から生産物に移転された価値部分・すなわち・不変資本部分をあらわす。 v は、資本家が労働力の購入に投下した資本の価値の取戻し部分・すなわち・労働力の価値に該当する部分をあらわす。この v が、可変資本部分と呼ばれるのである。 m は、価値の増殖によって増加した価値部分・すなわち・剰余価値をあらわす。

 生産過程における生きた労働は、すなわち、いままさに発現しつつある労働力は、価値増殖そのものなのであり、可変量としての可変資本なのであって、この可変量としての可変資本によって生みだされた結果としての価値から、労働力の価値に該当する価値量を差し引くならば、価値の増加分が得られるのであり、これが剰余価値と規定されるのである。われわれがこのようにしてつかみとった結果をなす内容を端的に表現するならば、可変量としての可変資本は、 (c+v) 部分を、すなわち、可変資本部分と剰余価値との和をなす量の価値を生みだした、というように言うことができるのである。

 可変量としての可変資本によって生みだされた価値は、あらかじめ可変資本部分と剰余価値とに分かれているわけではない。ましてや、生産過程において、労働力の価値とそれを超えるところの剰余価値とが生みだされる、というように考えるのは、結果解釈主義的誤謬である。可変量としての可変資本によって生みだされた価値から労働力の価値に該当する価値量を差し引く、という計算をとおして明らかとなるその増加分が剰余価値をなすのである。

 生みだされた価値が労働力の価値に該当する部分と剰余価値とに分かれるという結果から、価値増殖の過程、すなわち生産過程を捉えかえすならば、労働日は、資本家によってすでに支払われた労働力の価値にたいする等価を生産する部分と剰余価値を生産する部分とに分かれる、といえる。労働日のうち前者の部分を必要労働時間、そしてこの時間内に支出される労働を必要労働というように、また、労働日のうち後者の部分を剰余労働時間、そしてこの時間内に支出される労働を剰余労働というように、マルクスは名づけたのである。

 このように捉えるならば、剰余価値の可変資本部分にたいする比率は、剰余労働の必要労働にたいする比率に等しいのであり、この比率、すなわち、 m/v=剰余労働/必要労働 を、マルクス剰余価値率と規定したのである。この剰余価値率は、資本による労働力の、だから資本家による労働者の、搾取度を正確にあらわすのである。