〔6〕 商品=労働市場と直接的生産過程

 〔6〕 商品=労働市場と直接的生産過程

 

 

 資本家の幼虫である貨幣所有者は、商品=労働市場にみずからの貨幣を投じて、一方では生産手段を買い、他方では労働者の労働力を買う。封建制的な身分的紐帯から自由であると同時に生産手段から自由である、つまり生産手段を持たない労働者は、自己の労働力を切り売りする以外になく、貨幣所有者はみずからの貨幣をこの労働力と交換するのである。ここにおいて、二重の意味で自由な労働者の労働力は商品となる。

 労働力という商品の使用価値は、これが価値の源泉であり、この使用価値の消費が価値の創造となるという独自性をもつ。

 労働力という商品の価値は、この商品と労働者の生活に必要な生活手段との価値関係をとおして決定される。すなわち、労働力商品は労働者の生活手段をみずからに等置する。こうすることによって、この労働力商品の価値は、商品である生活手段の使用価値においてあらわされる。その価値の大いさは、労働力の再生産および生産に必要な生活手段の価値によって規定されるのである。

 生産手段と労働力とを手にした資本家は、生産手段の使用価値とともに労働力の使用価値を消費する。このことをとおして生産物がうみだされるのであり、この過程が資本の直接的生産過程をなす。この生産物は資本家の所有物であり、資本家はこの生産物を商品として販売し貨幣を手に入れるのである。

 このように、資本の直接的生産過程は商品=労働市場を前提とし、それによって措定されると同時に、資本の直接的生産過程によって商品=労働市場が措定されるのである。商品=労働市場は直接的生産過程によってその根底から規定されると同時に、商品=労働市場は直接的生産過程の絶対的基礎をなすのである。

 商品=労働市場においては、貨幣の所有者と労働力という商品の所有者とが相対するのであり、この両者の関係は、人格的に自由・平等な関係をなす。商品=労働市場の直接性におけるこの関係が、実は貨幣関係によって隠蔽された階級関係にほかならないことが、直接的生産過程においてあらわとなるのである。

 直接的生産過程においては、労働者が生産手段にみずからの労働力を対象化して生産物をつくりだすのであるが、実は、これは、生産手段という姿態をとった死んだ労働が労働者の生きた労働を吸収して自己を増殖する、ということにほかならない。すなわち、これは、死んだ労働たる価値の自己増殖なのである。このようにして自己増殖する価値が資本であり、資本は、その姿態を変えながら増殖する価値の運動をなす。

 このように、直接的生産過程においては、その客体的契機をなす生産手段も、その主体的契機をなす生きた労働も、ともに資本の定有となるのである。

 この直接的生産過程において、資本たる生産手段が労働者の生き血を吸って肥え太るのである。これが、資本による賃労働の搾取である。資本は、労働者の生き血たる生きた労働の凝結物なのであり、生きた労働はそれ自体、資本の定有なのである。このように、資本と賃労働とは同じものの二側面なのであって、この両者は矛盾的自己同一をなすのである。

 直接的生産過程において資本が賃労働を搾取する関係が資本関係なのであり、商品=労働市場における・貨幣商品の所有者としての資本家はこの資本の人格化にほかならず、労働力という商品の所有者たる労働者はこの賃労働の人格化にほかならない。商品=労働市場における商品所有者同士の自由・平等な人格的関係は仮象なのである。

 商品=労働市場における貨幣商品の所有者と労働力という商品の所有者との関係は、一方における生産諸手段の資本としての集中と、他方における・自己の労働力以外には何も持たない労働者すなわちプロレタリアの存在という資本制生産関係を根源とし、これにその根底から規定されているのである。その生産関係は、資本家階級すなわちブルジョアジーと、労働者階級すなわちプロレタリアートとの階級関係なのである。

 資本制生産においては、この生産関係は、したがってこの階級関係は、資本と賃労働の関係という物化された形態をとるのである。資本制生産をその物化された形態において明らかにするのが資本制経済学なのであり、資本制経済の普遍的本質論なのである。