統合失調症が発症する要因は何か
うつ病や過労死ばかりではなく、統合失調症でさえも、その人を介護し看護する介護労働者や看護労働者は、その人がこの病におちいった要因を分析しなければならない。この病気を病む人は、それ固有の遺伝的形質をもつのであるが、この形質をもつということとこの病が現に発症するということとは別だからである。
その人は、仕事をしていたときに、その仕事の成績にかんして上司から叱責されつづけていたかもしれないのである。あるいは、重い課題を課され、神経を使う厳しい労働を毎日毎日寝る間もないほどに自己責任においてやらされていたのかもしれないのである。さらには、それよりも過去の子どものころに、両親が喧嘩ばかりしていて、感情がはげしく揺さぶられ、感情をもちえなくなるというものを背負っていたのかもしれないのである。
こういうときには、人は、普通は、うつ病になる。これに反して、統合失調症になりやすい形質をもっていた人は、この病気を発症することになるのである。
だから、資本制的に疎外された労働は過酷なのである。また、他者を蹴落とさなければ生きていけない、この資本の支配する競争社会は、精神をむしばむのである。
介護労働者たちや看護労働者たちは、介護し看護する相手である統合失調症におちいった人に接したとき、この病気を発症させたこの人の過去に思いをはせ、この社会そのものに怒りをもやさなければならない。
この人の幻覚を、そんなものは存在しないと否定することは、この人にとって耐えがたいことである。現に見えているのだからである。看護労働者や介護労働者は、幻覚が見えているこの人をうけいれなければならない。しかし、それは、自分を殺したり、やり方として体得したりすることではない。この人をこの症状におちいらせたこの社会に怒り、この社会をくつがえす意志をおのれに創造して、この人に接しなければならない。この意志を創造することが、資本制的に疎外された看護労働・介護労働をする自己存在の否定であり、この自己の突破なのである。それだけが、この人のふるまいに戸惑い、激しく感情を揺さぶられても、自己を、この人におちついて相対することができるものとするのだ、と私は思うのである。資本制的諸関係のもとで、すでにもつようになってしまったこの人の幻覚をすぐになくすことのできるいい手があるわけではないからである。自分がこうすることが、せめても、この人の心をおちつかせるものとなる、と言えるだろうからである。私は、こう思うのである。