介護労働者が大変——私が働いていた老人ホームでは

介護労働者が大変——私が働いていた老人ホームでは

 

 私は、いまは年をとりすぎて退職したが、70歳代半ばまで養護老人ホームの厨房で働いていた。調理補助つまり盛り付け・皿洗いの仕事だった。私が雇用されていた会社は、施設から給食の業務を委託されていた。私は、雇用主のちがう・若い介護労働者をも組織するためにいろいろと働きかけたのだが、うまくいかなかった。厨房の労働者には全員に渡していた私が書いた本を、『二一世紀の資本主義と変革主体の危機』——みんなに渡すことを目的として、これには、この厨房における私やみんなの労働についても書いていた——だけではなく、『共産主義経済建設論』などをも、読んでくれ、と言って渡して話したのだが。私が管理者とたたかっている姿を見ていない介護労働者は、厨房の労働者とは、その意識がまるで違ったのである。

 施設には、検食というのがあった。入所者にふさわしいかどうか、毎食、職員に食べてもらうものである。朝食と昼食は介護士が食べたが、夕食は守衛さんが食べた。政府が介護施設への援助金を減らすというニュースが流れたときがあった。介護施設の労働者の賃金が切り下げられそうだった。私は、守衛さん用の夕食を事務室に持っていったとき、事務をとっていた七~八人の事務の労働者に、「政府が援助金を減らすということで、介護士さん大変ですね。いっしょにたたかいましょう」、と声をかけた。一人の労働者は、「ニュースでは介護士が大変だといわれているけれども、私たち事務はもっと悲惨なんですよ」、と呼応してくれた。しかし、別の人はそれをさえぎるかのように、「厨房さんへのお支払いはこれまで通りきちっとしますから、心配していただかなくても大丈夫です」、と答えた。この人は、私が業務委託を受けている会社として、支払いが滞らないか心配している、とうけとったようだった。いろいろ声をかけたが、みんな、私が自分の会社の管理者とたたかっている人間なんだ、と感じとってくれなかった、ということが大きかった。管理者とたたかうということそれ自体がわからないようだった。

 あるとき、夕食後、二階からワゴンが下りてこないのでとりにいった。入所者が一〇人ぐらいずつで一つのユニットになっていて、介護労働者は、二つのユニットで一単位というかたちで労働しているようであった。ユニットは、空・虹、つまり空に虹、海・魚、つまり海に魚というように、名前がつけられていた。二階にはこの四つのユニットがあった。これの空と虹の二つのワゴンが下りてこないのだった。介護労働者が各部屋から車いすで真ん中の食堂に運んで空と虹の入所者がいっしょに食事をとるようになっていた。私は厨房と直結したエレベーターで二階に上がって「大変だねえ」と声をかけた。若い女性の介護労働者が一人でとぼとぼと食器の片づけをやっていた。「今日は休んだ人がいて、一人で食事介助なんですよ」と泣きそうな声で言った。「支援の体制をつくらないなんて施設もひどいね。空と虹だから二〇人もじゃない。うちの会社もひどいけど」と私は言って、食べ残しをバケツに捨て、同じ食器ごとにかさねて番重(ばんじゅう)にいれ、番重とバケツをワゴンに積むのを手伝って、そのワゴンを下におろした。

 見るからに介護労働者は大変だった。