反抗する老人に怒りをいだき、そうなった自己への嫌悪におちいることを突破するために
私が二階に届け物をしてエレベーターに乗ったとき、30代ぐらいの女性のベテランらしい介護労働者が乗りこんできた。ドアが閉まるかどうか。いきなり、彼女は言った。「ん、もう! あのおばあちゃん、頭にくる。おにぎり作ってくれ、と言うから作ってあげたら、いらん、と食べない。もう、勝手なんだから。このいそがしいというのに!」怒り心頭に発する、というふうに、カンカンだった。私は「それは大変ですね」、と言うのが精いっぱいだった。一階についたとたんに彼女は走っていった。
厨房のわれわれに見えているのはこれぐらいであって、入浴介助で、腕をひっかかれたり、足をけられたり。おむつを代えようとしたら暴れて一面べとべとになったり、というようであった。
厨房の外の廊下から泣き叫ぶ声が聞こえるので、重い引き戸を開けると、車いすに乗った瘦せたおばあさんが目を引きつらせて「何やってんの!私の言ったことわからんの!それでも介護士!」と若い女性の介護労働者を罵倒しつづけていた。彼女は「行きましょうね」と言いながら、手をバタバタさせて拒否するおばあさんにほとほと困っていた。
そうかと思うと別のおばあさんが介護士に車いすを押してもらって引き戸のところまでやってきた。介護士が引き戸を開けて、厨房のわれわれに遠慮がちに「この入所者様が、厨房の方に言いたいことがあるそうで」と言った。おばあさんが怒鳴った。「インゲンの切り方、あれ何!あんな短いの何よ!私はいろんな老人ホームまわってきたけど、こんな切り方見たことない!」とまくしたてた。連れてきた介護労働者は、説得にほとほと手をやいて、厨房の人間に直接ぶつけさせに来たようだった。われわれは、「すみません。気をつけます」と平謝りにあやまった。のどに詰まらせてもらっては困るので、今後も同じように切る以外にないのだが。いつも切り方は同じなので、怒った原因は別のところにあるようだった。
みんな認知症がすすんでいるようで、いまの直前のことがわからないようだった。
介護労働者は、社会の役にたとう、がんばってきた老人の役にたとうと、熱意と希望に燃えて老人ホームにやってきたのに、その老人に罵倒され反抗されて「この人なんか、殴ってやりたい」という気持ちになり、そんな気持ちになった自分に自己嫌悪を覚えた、という人も多い、と私は聞いた。
介護労働者のみなさん!
そういう自分を省みながら、目の前の老人たちがどういう生活をおくってきたのか、どういう過去を背負っているのか、そして今どういう扱いをうけているのかをみよう。
私が接したり聞いたりしたところの怒った老人は、女性ばかりだった。この地は、カカア天下で名高い群馬県、上州であるからかもしれない。気丈夫に一家を背負ってきた人だ、という印象を私はうけた。いまはもう生糸の生産ということはないから、いろいろと働いてきたのだろう。
厨房でいっしょに働いていた私よりも少し若いぐらいの老齢の女性たちは、それぞれ壮絶な生涯を送ってきていた。ここで書くのははばかられるので書かないが、過酷だった。
どうしてもそういう目で、ここで生活している老人たちを私は見るのである。
そうすると、資本からすれば、もはや労働力としては役立たず、搾取材料たりえなくなった人間たちが、ポンコツとしてここに集められ、芋の子を洗うようにして、自然的生命だけを生きながらえるように扱われている、という気が、私にはするのである。資本家のその下働きをさせられ、こき使われているのが、介護労働者である、と。そして、料理をつくり提供している厨房のわれわれもまたそうである、と。
介護労働者がそのときどきに老人の気持ちをうまく汲みえたかどうか、ということはあるであろう。だが、それを超えるものがある、と私は思うのである。老人にとって、自分は社会にいらない人間として、役立たずとして、ここに集められているのである。しかも、記憶をたどっても、自分が役に立つと見なされたのは、自分がこき使われていたときであった。老人たちは、いまここに存在しているだけで、何が何だかわからないままにわが身が怒りで震えるのではないだろうか。おにぎりをいらないと拒否した老人、介護労働者を罵倒していた老人、インゲンが短いと言って喚いた老人を見て、私はその人の内面に、言い知れぬ怒りを感じるのである。
認知症にしてからがそうだ。認知症は、他者との人間的な関係がたたれると一気にすすむのである。認知症は超歴史的なものではない。アルツハイマー型か、レピー小体型か、というような話ではない。介護労働者は、この老人たちを、ただ生命を維持するように取り扱わされているのである。この老人たちの壮年時代を見ても、彼らは搾取材料とされてきたのである。彼らの脳と感性は徹底的に委縮させられているのである。
介護労働者のみなさん!
この現実に怒りをもとう。自分がこのようにさせられているこの社会に怒ろう。自分をこのようなかたちでこき使っている資本家に憤ろう。このようなものとされている自己存在を否定しよう。このような自己から脱却し、この社会を転覆する意志をおのれ自身に創造し、この社会を変革する闘いに起ちあがろう。
この意志の創造が、自己嫌悪におちいる自己を突破するものなのである。