〔3〕 根源的蓄積過程にかんする叙述を冒頭におくべきだ、と考えたことも無益ではなかった

 〔3〕 根源的蓄積過程にかんする叙述を冒頭におくべきだ、と考えたことも無益ではなかった

 

 

 何十年も前に、私が当初、ソ連製の経済学教科書の圧縮版のような二つの本を読み比べて、経済学の本では、資本の根源的蓄積過程(本源的蓄積過程、原始的蓄積過程とも訳される)にかんする展開を冒頭におくべきだ、と考えたことも無益ではなかった、と今日的に私はおもう。

 商品に始まる『資本論』の体系的叙述を、根源的蓄積過程によって生みだされた資本制生産を解明したものだ、と私は頭から=何ら疑うことなく考えたからである。

 いまから考えると、ソ連製の圧縮版教科書では、商品にかんする展開、すなわち商品の使用価値および価値、そして商品にあらわされた労働の二重性にかんする展開は、単純商品にかんするそれとして論じられていた、といえるのであるが、私はそのようには理解せず、資本制商品にかんして明らかにされているものとして読んだのである。

 そして、商品の物神性のところにでてくる、「私的労働と社会的労働との矛盾」ということにかんしては、これはおかしい、工場でこき使われている労働者の労働は私的労働とはいえない、と考えたのである。

 総じて、今から考えると、ソ連製の圧縮版教科書では、『資本論』においては単純商品生産から資本制商品生産への歴史的発展の過程が叙述されている、と解説するものとして、その内容がかいつまんで展開されていたといえるのであるが、私はそうは読まなかったのである。そういうソ連製の解説に私が毒されなかったのは、そのソ連製の解説自体を、根源的蓄積過程という、農民からの土地の収奪によって生みだされた諸関係のもとでの商品が論じられているものとして当時の私は読んだからだ、と私はおもうのである。

 我田引水ながら、私のこの体験に照らして、『資本論』第一巻の最後で展開されているところの資本の根源的蓄積過程にかんする論述をつかみとることが、『資本論』の体系をわれわれが主体的に把握するうえできわめて重要である、と私は考えるのである。