〔2〕 われわれは『資本論』の冒頭の商品におのれを見る

〔2〕 われわれは『資本論』の冒頭の商品におのれを見る

 

 

 『資本論』の冒頭の商品は労働力商品である。したがってまた同時に、それは、労働力商品によってつくりだされたところの資本制商品である。

 『資本論』を読むわれわれは、この商品におのれを見る。われわれはおのれの労働力を商品として売る以外に生きることのできない存在なのであり、賃労働者である。商品の自己展開としての『資本論』の体系的叙述は、われわれ賃労働者の自覚内容としての意義をもつ。われわれはおのれが何であり何であるべきかを自覚するために『資本論』を読み、その内容を主体化するのである。

 資本制生産のもとに編みこまれている労働者であるわれわれは、人格的に自由であると同時に生産手段から自由であるという、二重の意味で自由な労働者、すなわち賃労働者=プロレタリアである。われわれは、生産手段から自由である・すなわち・生産手段を持たないがゆえにみずからの労働力を商品として売る以外にない存在なのである。資本制生産は、一方における生産諸手段の資本としての集中と、他方における二重の意味で自由な労働者すなわちプロレタリアの存在を物質的条件とするのである。

 ここにおいて、このような、生産手段の資本としての集中と二重の意味で自由な労働者とがいかにしてうみだされたのかという歴史的過程をふりかえることが、すなわち歴史的反省が必要となる。

 国家権力の暴力をもって直接的生産者たちは生産手段を奪われたのである。イギリスにおけるエンクロージャー運動が、それである。土地およびその他の生産諸手段の一切を収奪されたところの、農奴あるいは独立自営農民であった人びとは浮浪民となって都市に流れこんだのである。彼らは、雇い主を見つけそのもとで働かなければ鞭うたれ額に焼き印を押され死刑に処せられるという、国家権力からの強制によって、生産手段を所有する資本家に監督されて働く賃労働者となったのである。

 就職し資本のもとで働くのを当然のこととしている今日の労働者は、遠い昔からそうであったのではない。このような強制と訓練によって生みだされたのである。われわれは、鞭うたれ額に焼き印を押され死刑に処せられたわれわれの先輩たちの悲しみと悔しさと怒りと、これを根底からくつがえす熱情と意欲と精神を、自分自身の内面に深く沈潜させているのである。

 したがって、労働者階級の解放は、収奪者を収奪すること、すなわち、労働者階級が資本家階級から一切の生産手段を収奪し、階級としての自分たちの共同所有とすることにあるのである。

 われわれは、賃労働者=プロレタリアとして、このことを歴史的使命とするのである。われわれはこのことを自覚しなければならない。