労働組合の会議の「場」と「われわれ」たる労働組合そのものとを混同してはならない
自分は、労働組合の一員であるとしよう。組合の役員であるのか、一組合員であるのかを問わない。
労働組合をわれわれが活動する「場」と感覚し、そのように言語的に表現するばあいには、自分自身が組合の会議の場で発言することに慣れているのではないか、という気が、私にはしてきた。
会議で発言したり論議したりしているのは、この「会議の場」でそうやっている、ということができる。だから、会議の場は「場」である。この場では、自分は、会議に参加しているみんなに向かってしゃべるわけである。
これに反して、労働組合そのものは、この組合組織のすべての成員みんなが「われわれ」であり、われわれが敵階級とたたかうのであって、自分がこのみんなを牽引するのである。いま・ここで書くときには、政府も資本家階級のなかの諸勢力もそして会社経営陣および管理者も全部ひっくるめて敵階級とよぶことにする。自分が牽引して、われわれがうって一丸となって敵階級とたたかうのである。このように考え体感するならば、労働組合を「場」と感覚することはなくなるであろう。
自分は、組合員たちが・会社に雇われた労働者として・それぞれの労働配置について仕事をしているときも、バラバラに生活しているときも、みんなで見えないスクラムを組んで・自分がその先頭で・敵階級と対峙して・引っ張っていることを体感していなければならないのである。そこにほころびができたら・すなわち・腕をはずす組合員がいたら、大変なことである。そんな組合員がいないかどうかというように気を配りながら、自分が先頭にたつのである。
組合の会議になると、みんな集まってきて、ホッと一息ついて、ああだ・こうだと論議するのである。机を四角く並べたり、決起集会形式にしたりして、会議をもつわけである。これは、会議の場である。
この両者を混同してはならない。