〔13〕 使用価値の実体と価値の実体――実体

 〔13〕 使用価値の実体と価値の実体――実体

 

 

 商品の実体はこれに対象化されている労働であり、商品に対象化されている労働は、使用価値の実体としては具体的有用労働と規定され、価値の実体としては抽象的人間労働と規定される。このように、商品に対象化されている労働=商品にふくまれている労働=商品で表示される労働は、二重性格をもつ。

 このことを理解するためには、実体という概念をつかみとることが必要である。

 或る商品は他の商品をみずからに等置する。こうすることによって、二商品の使用価値の種類の相違は消失するとともに、これらの商品に対象化されている労働の種類の相違も消失して等質化されかつ等しい量として措定される。

 このことについてマルクスは、次のように論じている。

 「20エルレの亜麻布=1枚の上着 であろうと、=20枚の上着 であろうと、=x枚の上着 であろうと、すなわち、ある与えられた分量の亜麻布が多くの上着に値しようと、僅かの上着に値しようと、あらゆるかかる比率は、つねに、亜麻布と上着とは価値の大いさとしては同じ単位の表現であり、同じ本性をもつ物であるということを、含んでいる。亜麻布上着 ということが、方程式の基礎である。

 しかも、質的に等置されたこの二つの商品は同じ役割を演ずるのではない。亜麻布の価値のみが表現されうるのだ。では、如何にしてか? 亜麻布がそれの『等価』あるいはそれと『交換されうるもの』としての上着に連関することによってである。この関係においては、上着は、価値の実存形態として・価値物として・意義をもつ、――けだし上着は、ただかかるものとしてのみ、亜麻布と同じものなのであるから。他方では、亜麻布それ自身の価値存在(ヴェルトザイン)が現出する、すなわち一の自立的表現を受けとる、――けだし亜麻布は、ただ価値としてのみ、同等な価値あるもの・あるいはそれと交換されうるもの・としての上着に連関しているのだから。たとえば酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし両者は、化学的実体(ズプスタンツ)――炭素(C)、水素(H)、酸素(O)から成りたち、しかも同等な化学的組成、すなわちCである。いまもし酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係においては、第一に、蟻酸プロピルはただCの実存形態としてのみ意義をもつであろう。そして第二に、酪酸もまたCから成りたつということが語られているであろう。かくして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、酪酸の化学的実体が、それの物体形態から区別されて表現されているであろう。」(長谷部文雄訳、青木書店版、一三六~三七頁)

 マルクスが「それらの労働が上着価値の実体および亜麻布価値の実体であるのは」(一二九頁)と言うばあいの「実体」、したがってここで「化学的実体」と言うばあいの「実体」は、――ルビがふられているように――「 Substanz ズプスタンツ」という語である。

 マルクスが「それ〔商品〕に含まれている『価値を形成する実体』すなわち労働の分量」(一一九頁)と言うときの『価値を形成する実体』は、「 wertbildenden Substanz 」と表記されており、「価値をかたちづくっているところの実体」というように理解することができるのであり、商品に対象化されている労働の一規定だ、ということがわかるのである。ちなみに、ドイツ語に精通している人に教えてもらったところによれば、 bilden というドイツ語の動詞(英語では build に相当する)には、「作る・形成する」という意味のほかに、「なしている」という意味もあるのだそうである。「価値を形成する実体」というばあいには後者の意味である、ということができる。

 これに反して、マルクスが生産過程論において、「価値形成過程(Wertbildungsprozess ヴェルト・ビルドゥンクス・プロツェッス)」というときの「形成」は、――商品という・生産された結果として現にあるところのものの規定ではなく、商品を生産する過程の規定なのであるからして、――「作る・形成する」という意味である、というように理解することができる。

 とにかく、「価値の実体」「価値をかたちづくっているところの実体」というようなことを考えて、実体という概念を論理的に把握することが肝要である。

 物理学者の武谷三男は、マルクスのこの実体という概念とこの実体にかんする論理的考察を基礎にして、人間の対象的認識は、現象論的段階――実体論的段階――本質論的段階という三段階をとって深まるのだ、ということを明らかにしたのであった。これが武谷三段階論と呼ばれるものである。

 われわれは、マルクスの『資本論』の展開の理解を深めるために、このようなことについても思いをはせる必要がある。

 この「ズプスタンツ=実体」という語のほかに「トレーガー=担い手」という語がある。マルクスは、資本制生産のもとでは「諸使用価値は」「交換価値の質料的担い手をなす」(一一五頁)と言うときの「担い手」としては「 Träger トレーガー」という語をもちいている。日本語では「実体」という語を「担い手」という意味においてもちいることがあるのであるが、日本語でも「価値の担い手」と言えば使用価値をさすことになってしまうし、「交換価値の質料的実体」とは言えない。このことにふまえて、「形態とその実体」ということにかんして、また「諸現象とそれを担う諸実体、本質的二実体と両者の本質的関係」ということにかんして、論理的にほりさげていかなければならない。