〔33〕 人間は、概念を、現実的なものを抽象するというように頭を働かせることなく、知識として身につけている!

〔33〕 人間は、概念を、現実的なものを抽象するというように頭を働かせることなく、知識として身につけている!

 

 考えてみると、どうも、われわれ人間は、もろもろの・それなりに抽象的な概念やきわめて抽象的な概念を、直接的現実を直接的に反映したかぎりでの現実的なものを抽象する、というように頭を働かせることなく、それ自体として、知識というかたちで身につけているようだ。

 労働と言ったばあいに、現実には、建築労働とか、機械製造労働とか、運転労働とか、介護労働とか、教育労働とかというように、いろいろとあるわけである。とはいえ、これらは労働部門別の労働の把握であって、もっと直接的には、働く者一人ひとりの労働は異なるのである。一人ひとりの労働や部門別の労働を抽象して、資本制的に疎外された労働というようにつかむことができる。また、さらに抽象して、人間が自然に働きかけるという意味での人間労働一般というものをつかみとることができる。

 だが、われわれは、いま私がのべたこと総体を知識としてえることができる。実際に、自分が現実的なものを抽象するというように頭を働かせなくても、抽象することをとおしてつかみとられたものを知識としてえることができるのであり、さらには、抽象するというように頭を働かせるのだ、ということをも知識としてえることができるのである。

 これは恐ろしいことだ、と私は気づいた。

 そのひとが実際に現実的なものを抽象しているのか、それとも、すでに現実的なものを抽象してえられた結果としての概念や、現実的なものを抽象するのだ、という頭の働かせかたを、知識として知っていて、その内容をしゃべったり書いたりしているのかということは、そのひとの発言を聞いたり文章を読んだりすることによっては、ほとんど判別できないのである。わが仲間であるならば、このことは、そのメンバーが不断に現実を下向的に分析しえているのかどうかということによってわかる。そうすると、ほとんどのメンバーは、実際に現実的なものを抽象しているのではなく、すでに知識としてもっているものを展開しているのだ、ということがわかる。

 そうなのか、と私は思うのである。資本制的に疎外された労働ということも人間労働一般ということも、自分が実際に抽象しなくても、それ自体を存在論としてつかむことができるのである。さらには、抽象するという頭の働かせかたも、自分が実際にそのように頭を働かせていなくても、すでに知っている認識論的な規定として展開することができるのである。どこまでも、概念や規定の内容をつかむということが先行するのである。そうすると、読んだり聞いたりして自分がつかむ内容は豊富化するのであるが、現実的なものを出発点にして自分が頭を働かせるということは、鍛えられないままとなるのである。これは恐ろしい。

 やはり、マルクスとマルクス経済学者とは違うのである。

 せめて、われわれはマルクスの文章そのものを読まなければならない。