〔31〕 われわれはマルクスの抽象力をわがものとしなければならない。この資本主義社会を転覆するために

〔31〕 われわれはマルクスの抽象力をわがものとしなければならない。この資本主義社会を転覆するために

 

 われわれは、マルクスが『資本論』で労働過程について論じたなかの、ミツバチと建築師のくだりを読む。われわれは、この建築師にかんして、自分が眼前にしている建築労働者を思いうかべる。

 われわれは、ここで、マルクスは、自分がいま思いうかべている建築労働者と同様の建築労働者をどのように考察したのか、ということを考えなければならない。

 マルクスの文章をよく読む。そして、マルクスが彼の頭のなかに描いているであろう像を推察してみると、そこには、建築資本家はいない。設計労働者と建物を建築する現場労働者との区別もない。資本主義社会では、建築業の資本家がどのような建物を建築するのかということを構想し、それにもとづいて・自分が雇った設計労働者に設計させ、その設計図にもとづいて・これまた自分が雇った現場労働者たちに建物をつくらせるのである。

 ところが、マルクスがこの文章として書いている像には、これらの人びとの区別はない。あたかも一人の建築師のように見える。しかし、一人の建築師では建物を建てることはできない。このように考えると、資本家がいないところの、多くの建築労働者たちがみんなで何を建てるのかということを考え、みんなで設計し、みんなで現場での労働をやる、というようにマルクスは描き、これを一人の建築労働者に代表させて「建築師」とよんでいるのではないか、ということが、われわれの頭に浮かんでくる。

 ここで、われわれは「そうか」と気づかなければならない。マルクスは、現実の建築労働者から出発して、これをグイーンと抽象したのだ、と。抽象は、他面からいえば捨象である。現実的で複雑な具体的なものから、本質的な簡単なものをとりだし・つかみとるのが、抽象という人間の思惟の働きである。この思惟の働きは、他面からいえば、現実的で複雑な具体的なものから、それを具体的なものたらしめている特殊的な諸契機を捨て去ることである。捨て去ると、本質的で簡単なものが残るのである。これが捨象である。だから、抽象と捨象はまったく同じ思惟の働きを別の角度から言い表したものなのである。

 このように考えると、マルクスは、抽象する=捨象するというように頭を働かせたのだ、ということがわかるのである。

 マルクスは、資本家が構想し、設計労働者が設計し、現場労働者が建築するという建築業のすべての作業から、資本主義固有のものをすべて捨象したのである。このことを、われわれは、現実のプロレタリアの労働から資本主義的な階級性・歴史性を捨象し、労働の本質形態をつかみとる、と言うのである。まさに、マルクスはこのように頭を働かせ、このようにしてつかみとった本質的な労働者を「建築師」と表現したのである。そして、このように頭を働かせることを、人間労働にかんする普遍的抽象のレベルに下向する、というように言うのである。抽象する=捨象するというように頭を働かせることが下向するということである。

 われわれは、マルクスがこのように頭を働かせた過程をわれわれ自身がたどることをとおして、われわれがいまおこなっている労働は、マルクスが明らかにした労働の本質形態の資本制的に疎外された形態なのだ、というようにつかみとることができるのである。

 そして、「この資本制的に疎外された労働を廃絶して労働の本質形態を実現しようぜ」というようにマルクスがわれわれに呼びかける声を、われわれは聞き、よし!そうするぞ!と決意するのである。