〔30〕 マルクスの理論の学習は、学校での勉強のように積み重ねるのではなく、自己を否定するのである
われわれが労働者(たち)を変革するためにマルクスの理論をいっしょに学習したり論議したりするとき、相手の労働者は、学校での勉強のように、前回の学習や論議でつかんだものを基礎にして、そのうえに、今日やる新たなものをつみかさねていくのではない。彼は、これまでの・したがって現在そのものの自己を否定するのである。われわれは、このようにうながすかたちで、彼と論議しなければならない。
この構造は、われわれ自身がマルクスの理論を学習するときも同じである。しかし、ここでは、われわれが変革しようとしている労働者(学生もおなじ)がどのようにするのか、というかたちで論じていくことにする。また、変革するわれわれの側からではなく、相手の労働者の側から論じていくことにする。
学校での勉強のばあいには、前回および前回までに教わり・つかみとったものを基礎にして、そのうえに、きょう教わるものをつかみとり・つみかさねていけばいいわけである。また、つみかさねていくのであるからして、休んだ日があると、補習授業をやってもらわないことには、ついていくのがけっこう大変なのではないか、と思う。このことは、学校教育では、勉強する主体が、児童であれ生徒であれ学生であれ、成長過程にある子どもであり、勉強し体得するものが学校教育の内容すなわちブルジョア・イデオロギーであることにもとづくのである。親からしつけられ教えられてきたものも、学校の先生に教育されてきたものも、自分で本を読んだものも、ブルジョア的価値意識にもとづくものなのである。たとえ、その時点でマルクスの本を読んだのだとしても、これまでの自己を否定するぞ、この社会をひっくりかえすぞ、と自分が決意して読むのでないかぎりは(あるいは、マルクスの本を読んでそう決意するのでないかぎりは)、同じである。自分は、これまでに獲得したブルジョア的価値意識を貫徹して読むことになるからである。子どもが学校で勉強するのは、自分がこの社会の一員として生き生活していくのにふさわしい人間に成長するためなのだからである。
われわれが彼を変革するために働きかける労働者は、これとは決定的に異なる。彼はわれわれといっしょにマルクスの本を学習するとしよう。彼は、マルクスの文章を読み、これまでの・したがっていま現在のおのれを否定するのである。彼はおのれを否定するのであるが、それは、いまマルクスの文章を読み・われわれからおのれをふりかえることをせまられ・衝撃をうけた一点の内容および一つの角度からのものである。一点突破全面展開というわけにはいかないのである。彼は、これまでの自分が崩れ去るのを感じ、新たな自分を創造しなければならない、という思いに駆られるのではあるけれども、いまマルクスの文章を読み・自己を否定したことを基礎にして、おのれそのものを全面的に否定することはできないのである。彼が、親からしつけられ教えられ、先生から学び、本からつかみとり、テレビやインターネットからの情報を信じ・あるいは取捨選択し、子ども同士の付き合いから体得してきたもののすべてが、ブルジョア的価値意識にもとづくものなのである。これは、きわめて根強いものである。彼は、マルクスの文章を読み・われわれと論議することによって、論議したその点にかんして自己を否定するけれども、他の点と他の部面は、まだ手をつけることはできないのである。
したがって、彼は、前回つかみとったことを基礎にして、今回、新たにマルクスの次の文章を読み・われわれと論議して得る内容を、そのうえにつみかさねる、というわけにはいかないのである。彼は無垢だったのではない。白紙だったのではない。彼は、マルクスの次の文章を読み・われわれと論議することをとおして、これまで学校教育をうけ生活して自分のうちにつちかってきたもののなかの別の部分をふりかえり・えぐりだし・それを否定しなければならないのである。これが、彼の自己否定であり、自己変革なのである。彼は、自己に蓄積しているもののなかのものを一つずつひっくりかえし新たなものを獲得していかなければならない。
だから、われわれは、前回、彼らに説明し、彼らがつかみとったであろうものを基礎にして、そのうえに、きょう読むところのものをつみかさね、彼らを育てていこう、というように考えてはならないのである。われわれは、きょう読むところのマルクスの文章は、彼らがもっている何と衝突するのか、彼らにマルクスの文章を鏡として何をふりかえり・否定することをうながすのか、というように、彼らを分析し考えなければならない。彼らのそれぞれのメンバーは、もっているものは異なる。われわれは、そのつど、それを、きょう読むところのマルクスの文章との関係で分析し、彼らのそれぞれをどのように変革するのか、ということを構想しなければならない。
若い労働者たちを変革するために、われわれはこのように分析し思惟しなければならない、と私は考えるのである。
