「対象化された労働」という『経済学批判』でつかわれている概念でもって『資本論』を解釈すべきではない

「対象化された労働」という『経済学批判』でつかわれている概念でもって『資本論』を解釈すべきではない

 

 マルクスは、『経済学批判』でつかっていた「対象化された労働」「商品に対象化されている労働」という表現を、『資本論』おいては基本的にはつかっていない。「対象化された労働」という表現にあたるものとしては、彼は『資本論』では、「人間的労働の凝結」「堆積」「結晶」「凝固した状態」という表現をもちいている。「労働力の対象化」(この表現は『経済学批判』でも駆使されているとはいえない)にあたるものとしては、『資本論』では「人間的労働力の支出」というように「支出」という表現をもちいている。さらに、「商品に対象化されている労働」にあたるものとしては、『資本論』では「商品で表示される労働」あるいは「商品に含まれている労働」という表現をもちいている。

 「対象化」という表現にかんしては、『資本論』では、次のようなかたちでつかわれている。

 「ある使用価値または財がある価値をもつのは、それのうちに抽象的・人間的労働が対象化または物質化されているからに他ならない。」(長谷部文雄訳、青木書店、119頁。——下線は原文では傍点、以下同じ)

 「一商品の消費から価値を引出すためには、わが貨幣所有者は、運良く、流通部面の内部すなわち市場で、一商品——それの使用価値そのものが価値の源泉であるという独自の性状を有するような、つまり、それの現実的消費そのものが労働の対象化であり従って価値創造であるような、一商品——を発見せねばならぬであろう。そして貨幣所有者は、市場でかかる独自な一商品を、——労働能力または労働力を見出すのである。」(315頁)

 以上の引用文からいえることは、「対象化された労働」というような、その用語それ自体でガッチリとした概念をあらわす、というような表現が『資本論』ではとられていない、ということである。

 このことは、『経済学批判』から『資本論』のあいだで、マルクスが労働過程にかんする解明をおこなった(労働過程論の成立)ということにもとづく、と私は考えるのである。

 労働者がみずからの労働力を自然素材に対象化することによって、自然素材が物質的に変化して、生産物がうみだされるのである。生産物は自然素材と労働との結合物である。労働力は自然素材に対象化されなければならず、自然素材なしには労働は生産物となることはないのである。マルクスは、このような生産物が生産される過程を、労働過程として、労働そのもの・労働対象・労働手段という三つの契機を措定して解明したのである。このような解明に立脚するならば、生産物という労働過程の結果を直接的にとりあげて問題にするときにも、対象化された労働すなわち生産物(対象化された労働=生産物)というように安直に理解してもらってはこまる、ということがマルクスの頭にうかんでいたであろうことが推察されるのである。

 ところが、商品価値の実体を明らかにするためには、労働生産物から自然素材の側面を捨象し、労働の側面だけを概念的にとりださなければならない。そこで、マルクスは、労働の側面だけをあらわすものとして、「人間労働力の支出」というように——「対象化」ではなく——「支出」という表現をもちい、——生産物という物そのものではなく——生産物にふくまれている労働というこの労働の側面だけをあらわすために「人間的労働の・すなわち・人間的労働力の支出の凝結」「堆積」「結晶」「凝固した状態」という表現をもちいたのではないか、と私は考えるのである。

 マルクスは、労働というかぎり、つねにかならず、生きた労働を考えている、といえる。彼にとっては、物となった労働というような考え方はないのである。したがって、商品に含まれている労働について考えるときには、それを「労働凝結」「凝固した労働時間」というように考えるのだ、といえるであろう。マルクスは、『経済学批判』のときから「凝固した労働時間」というように考えていたのだ、ということをしめすために、その書のこの部分を『資本論』で引用したのではないだろうか。

 われわれは、『資本論』を書いたマルクスをこのように捉える必要があるのではないだろうか。