マルクスの商品論における、思惟の働きにかんするアプローチと商品の運動にかんするアプローチ
マルクスは、商品、すなわち他の労働生産物と関係をとりむすんでいる労働生産物を分析することをとおして、これらの商品を規定している抽象的人間労働をつかみとり、これらの商品は、抽象的人間労働という実体の結晶としては、諸価値である、というように明らかにしたときには、二つのアプローチをおこなって考察している、と私は考える。その第一は、われわれ(研究者である自分)はどのように考えていくのか、という・思惟の働きを明らかにするアプローチであり、その第二は、われわれが分析する対象である商品、この商品がどのように運動するのか、という・物の運動の論理を明らかにするというアプローチである。前者のアプローチを、認識論的アプローチ、後者のアプローチを存在論的アプローチということができる。
私が第一のアプローチというようにつかみとったのは次のような展開である。
「諸商品の物体的諸属性が問題となるのは、総じてただ、それらが諸商品を有用ならしめ、かくして諸使用価値たらしめる限りにおいてのみである。ところが他方において、諸商品の交換関係をはっきり特徴づけるものは、まさに、それらの諸使用価値の捨象である。」(長谷部文雄訳『資本論』青木書店、117頁。下線は原文では傍点)
「さて、諸商品体の使用価値を度外視すれば、それらになお残るものは、一の属性、すなわち労働生産物だという属性だけである。ところが、その労働生産物もまた、すでに吾々の手で転化されている。もし吾々が労働生産物の使用価値を捨象するならば、吾々はまた、労働生産物を使用価値たらしめる物体的な諸成分および諸労働をも捨象するわけである。」(118頁)
私が第二のアプローチと見たのは、これにつづく次の展開である。
「それはもはや、机・家・糸・ないしその他の、ある有用物ではない。それの感性的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや、指物労働・建築労働・紡績労働・ないしその他の、ある一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに、労働諸生産物で表示されている諸労働の有用的性格が消失し、かくして、これらの労働の相異なる具体的諸形態も消失して、それらはもはや、互いに区別がなくなり、すべてのこらず、同等な人間的労働すなわち抽象的・人間的労働に還元されているのである。」(同)
「捨象する」「度外視する」「われわれの手で転化されている」というのは、すべて、われわれが対象を分析する・われわれの思惟の働き・および・われわれがこの思惟を働かせた結果である。
これにたいして、「消し去られている」「消失し」というのは、ある労働生産物が他の労働生産物と関係をとりむすぶことをとおして・このものに生じた変化であり、他のものと関係するという・存在をなす物そのものの運動の結果である。
われわれの思惟の働きにかかわることがらを明らかにするのは、認識論的アプローチであり、存在をなすものそのものの運動にかかわることがらを明らかにするのは、存在論的アプローチである。マルクスの展開を読むわれわれは、このように、アプローチの違いを明確につかみとらなければならないのである。マルクスは、認識論的にアプローチして論じたうえにたって、存在論的にアプローチして論述した、といえるのである。
このアプローチのちがいをよりいっそう鮮明にするためには、私が第二の存在論的アプローチと見て引用した文章の冒頭に「ある労働生産物が他の労働生産物と関係をとりむすび、両者が等しいものとなるかぎり、」という句を入れ、そのあとの「それ」を「それら」というように複数形にして、「ある労働生産物が他の労働生産物と関係をとりむすび、両者が等しいものとなるかぎり、それらはもはや、机・家・糸・ないしその他の、ある有用物ではない。それらの感性的性状はすべて消し去られている。それらはまた、もはや、指物労働・建築労働・紡績労働・ないしその他の、ある一定の生産的労働の生産物ではない。……〔これのあとの展開では、マルクスは「諸」「これら」「それら」というように複数形で書いている〕……」というように展開するのがよい、と私は考えるのである。
私は、このように、マルクスの展開のうちに二つのアプローチをつかみとったのである。