唯物論の立場にたって分析し考える、ということについて
私は、先ほど掲載した文章の冒頭に次のように書いた。
「この中国政府の態度表明は、日本国家権力者・高市が反中国の排外主義=日本ナショナリズムを貫徹したことにたいして、中国政府が反日の排外主義=中国ナショナリズムを貫徹して対抗したものにほかならない。」と。
今回の中国政府の態度表明というものは、新たに生起した物質的な事態である。私は、この物質的な事態に対決し、これを見すえて、この中国政府の態度表明はいったい何なのか、というように問うたのである。
このように、自分が物質的な事態に対決し、これは何なのか、と問うことが、唯物論の立場にたつ、ということである。
私の当該の文章を読んだからと言って、「中国政府による反日の排外主義の貫徹とは何なのか」というように問題をたててはならない。このようにやってしまうと、言われている言葉の解釈になってしまうのである。自分自身は、言葉から出発しているからである。自分自身は、現実そのもの=物質的な事態そのものに対決する、ということから出発していないからである。これは、自分が唯物論の立場にたっていないものなのである。
ここのところをよく考える必要がある。
権力者が「何々しません」(閣僚が「高市首相の答弁は、台湾問題にかんする政府の従来の見解を変えるものではありません」と言った、というようなこと)と言ったからといって、この権力者は何々することを否定した、というように捉えてはならない。このように捉えたのでは、権力者の言葉の解釈になってしまうのである。権力者が「何々しません」と言った、ということが物質的な事態である。われわれは、この物質的事態に対決し、これはどういうことなのか、というように問わなければならないのである。これが唯物論の立場にたつ、ということである。
われわれは唯物論の立場にたとう!

現実を見すえて、この現実を分析し考える——唯物論の立場にたつ