自分が直面している現実を唯物弁証法的に分析し考えよう!

自分が直面している現実を唯物弁証法的に分析し考えよう!

 

 マルクスの下向・上向の弁証法を適用することをもふくめて、われわれがみずからの論理的な力を発揮して考えることを「唯物弁証法的に考える」というように表現しよう。

 下向・上向の弁証法とは、われわれがみずからの直面している現実に対決し、この現実から出発して、それを深くほりさげて分析し、その根底にある本質的なものをつかみとる(下向的分析)、と同時に、今度は、その本質的なものを基礎にして現実的なものを具体的に把握する(上向的展開)、という・われわれが考える方法である。

 われわれがこのように考えるときに、唯物論的立場にたつ、ということが重要である。

 私は、このブロブに前回掲載した「介護の自己負担の拡大」にかんする文章で次のように書いた。

 「介護される老人たちの多くは、若いころおよび壮年期にはこき使われて搾取されてきた労働者たちなのである。老人になってからは、資本家どもによって、労働力としては使いものにならないポンコツとみなされて、自分で貯めたわずかのカネと、介護保険料として取られたカネと、子どもたちのカネと、国家が税金として労働者たちから収奪したカネとによって、なんとか生き永らえさせられているのである。」と。

 これは、介護の自己負担の増加を強いられる老人とは、どのような存在なのか、ということを明らかにしたものである。私は、政府が自己負担を増やす対象としている人を、介護される老人というように捉えるにとどめることなく、この老人たちをみすえて、この老人たちはどのような存在なのか、ということを問い、老人たちを分析したのである。そして、私が彼らを分析してつかみとった内容が、ここに書いたものなのである。

 このように、問題となっているところのものをおのれの対象として見すえて、これはどのような存在なのかというように問い・これを分析することが、唯物論的立場にたつ、ということなのであり、唯物論的立場にたって考える、ということなのである。

 われわれは、いま、唯物論的立場にたって考える、ということについて確認した。

 ところで、当該の文章において私が分析し階級的にあばきだす対象としたのは、政府が介護の自己負担を増やすことを構想しているということであった。私は、このことを自分が分析する対象としたのである。そして、政府が自己負担を増やすとしている老人とはどのような存在なのか、というように問うたのである。

 このように問うことが、下向的にほりさげて考える、ということなのである。政府は介護の自己負担を増やす、と言っている。では、増やす相手である老人はどのような人たちなのか、というように、一歩一歩ほりさげていくことが必要なのである。

 私は、その老人たちの多くは、搾取されていた労働者であったのだ、というように明らかにした。私がこのようにつかみとったのは、その老人たちを階級的に分析したからなのである。このように、われわれは、自分がいま分析している対象(老人たち)を、プロレタリア的な階級的価値意識を貫徹して分析することが必要なのである。

 そして同時に、私は、資本家どもはこのような老人たちをもはや労働力としては使いものにならないポンコツとみなしているのだ、というように明らかにした。これは、私が、過去に労働者であった老人たちの現在を、資本家どもとの関係において、資本家どもは老人たちをどのように見るのか、というように分析して把握したものなのである。

 これは、自分がいま分析している対象(老人たち)を、他(資本家ども)との関係において分析する、ということである。このように、或るものを他のものとの関係において捉える、ということが、われわれが弁証法的に分析するということの一つなのである。

 このように分析することをとおして、われわれは、「原則2割負担」というように「原則」がくっつけられているということは、過去に資本家であって資産をためこんでいる老人ばかりではなく、過去に労働者であった老人からもカネをとる、ということなのだ、何と悪辣なことか、これが、政府がやろうしていることの階級的本質だ、というようにつかみとり・あばきだすことができるのである。

 下向的にほりさげて考えていくときには、文章表現としては、「なぜなら、何々だからである」とか「何々にもとづく」とか「何々を根拠とする」とか「何々に根ざしている」とか「何々に規定されている」というように言語的に言い表して考えるのがいい。このような表現をつかって考えるようにしていくと、どんどん根拠へとほりさげていくことができるわけである。

 これとは反対に、「だから」とか「それゆえに」とか「したがって」とかという言葉を多用して考える癖を自分につけると、原則的なものから天下って考えるというようになってしまうのである。このように考えてしまうのを存在論主義的傾向というのである。このような傾向におちいらないためには、下向的に考えて文章を書いていったうえで、最後にボンと「まさにこのゆえに何々なのである」とたたみかける、というばあい以外は、いま挙げた言葉を使うかたちでは考えないほうがいいのである。

 弁証法的論理を駆使して考えるためには、現れたものとその担い手、現象とその本質、本質とそれを本質たらしめている実体、現に現れたものとその根拠、結果と原因、現在的なものとその過去、内容と形式、形態とその担い手、現存在するものの質的側面と量的側面、現にあるものとその物質的諸条件、イデオロギーとその物質的基礎、思想とイデオロギー、実践と理論、目的と手段、目的とその実現、意識と客観的存在=実在、概念とそのように規定される物質的なもの、主体と客体、主観と客観などなどの論理的な考え方をつかみとり、自分が分析する対象としたことがらを、このような論理にもとづいてひとりでに考えていくことができるように、自分で自分を訓練していかなければならない。

 断固がんばろう!

 

 

介護される老人。この老人はどういう存在なのかというようにほりさげよう!