教育労働者であるわれわれは、子どもをどのように教育すべきなのか

教育労働者であるわれわれは、子どもをどのように教育すべきなのか

 

 教育労働者であるわれわれ(以下、簡略に、われわれと表記する)は、自分がやっている労働である教育は、政府・文部科学省および支配階級に強制されたものである、ということを知っている。このゆえに、われわれは、この強瀬の枠をはみ出すことはできないけれども、この強制に抗して、その子どもたちが児童であるのか生徒であるのか学生であるのかに応じて、平和を大切にする子どもに育てるとか、その子どもたちを生活できる子にするとか、自主性をはぐくむとか、批判精神を養うとかというように考えて教育する。

 けれども、われわれはこれでいいのか、と私は思うのである。もしも教研運動というのであるならば、われわれは組合員としてこのような目標を設定し、教育実践をおこなって組合員たちと論議し、彼らを変革していく、というのでいいであろう。

 だが、われわれ自身として、このような目標をおのれの目的とするならば、このような目標に向かって子どもたちを教育し、それなりの成果をあげていることをもって、自分自身が満足してしまうのではないか、という気が私にはするのである。いっしょに平和教育をやっている仲間の教育労働者の変革にかんしても、平和を希求する労働者にするということをまずもっての課題とすることになり、戦争を阻止するためにプロレタリアートが階級的に団結してたたかわなければならないということを提起して、相手の労働者を階級的に変革するということを次の課題にする、ということがでてくる、と私は思うのである。

 われわれは、政府・文部科学省および支配階級の強制にしたがって、従順な子どもをつくるわけにはいかない。彼らが強制してくる外的合目的性を、おのれの目的意識にすることはできない。われわれは、この強制に抗することをおのれの目的意識にして、教育労働=教育実践をおこなわなければならない。そうでなければ、自分自身が、労働することにおいて自己を喪失し、自分をこわしてしまう。

 では、どうするのか。

 われわれは、子どもたちを、将来、革命的労働者となるような人間に育てるべきではないか、と私は思うのである。

 もちろん、この資本主義社会に反対するような内容を教えるならば、たちまち、保護者や校長・教頭やまた同僚の教師たちから問題にされてしまう。そこで、内容面ではなく、子どもたちに、現実を否定する立場にたつことをうながすこと・および・問題を下向的にほりさげ深く考える論理的な力を身につけさせること、これがいいのではないか、と私は考えるのである。現実を否定する立場の方は、いろいろと表現を考えなければならないことがある。これにたいして、論理的な力の方は、これを身につければ、子どもの学力は格段に上がるので何ら問題ではないのではないか、と私は思うのである。もちろん、将来、子ともであった人間の立場がひっくりかえって、手ごわいブルジョア・イデオローグができるかもしれないが、それは仕方がないであろう。ブルジョア教育の枠内でやっていることだから。

 現実を否定する立場にかんしては、「古代ギリシャの哲学者は「万物は流転する」と言ったんだ。すべてのものは変化するということだよ。だから、変える、ということを考える必要があるんだよ」、というようなことを言ってもいいであろう。小学生なら、動物や植物の成長を観察して、「こういうように変わっていくよね。そうすると、エサや水をやるのは、変える、ということだよね」、というように話してもいいであろう。

 論理的な力の方は、われわれが下向的にほりさげて考える、ということを頭において、学校で起きたことをいっしょにほりさげて考えていけばいいであろう。

 このようにするならば、子どもを教育することにかんして、平和を大切にする子どもに育てるとか、自主性をはぐくむとかというような天井がなくなり、青天井になるのである。同僚の教育労働者を変革することにかんしても、プロレタリア的主体にする、というように青天井になるであろう。さらに、われわれ自身が、実践的立場にたち、下向的にほりさげて考える論理的能力を身につけることを、切に、おのれの課題とすることになるのである。これほどいいことはない。