考察するということが、自分の既有の知識を下向的なかたちになるようにならべる、となる傾向を克服するために
われわれは、参政党が「日本人ファースト」と叫んだというような事態が生起したときに、これにかんする新聞やインターネットでの報道記事を読み、また種々の資料を調べる。われわれがこれらを読むことによって・これらの内容をわれわれがつかんだところのものは、われわれの知識となる。われわれは、すでに、われわれがこれまでの情勢を分析したところのものを知識としてもっている。さらに、われわれは、マルクス主義や反スターリン主義の理論の内容を知識としてもっている。
「何々は何々である」というような文をなすところのものを命題とよぶならば、われわれの知識は、命題の集合体をなす。この命題には、「誰それが何々をした」というような事実認識にかんするものと、「われわれは何々に断固反対する」というような価値判断にかんするものとがある。
われわれは、生起した事態に対決し、この事態にかんして考察する。このときに、われわれは、しばしば、われわれがいま獲得した知識・および・すでにもっていた知識のなかから、いろいろな命題を選びだしてきて、これらを、下向的にほりさげるというかたちになるようにならべる、ということをやってしまう。
これは、自分が考える、ということでは決してない、これでは、新たな事態が生起しているのに、自分自身のうちに、新たな・なにものをもうみだすことはない。
自分がもっている・また・新たに獲得した知識が豊富であればあるほど、生起した事態にかんして自分が新たに考察し、新たなものをうみだしたかのように見えるだけである。出所をたどれば、新たなものは何もない、ということになる。
考える、ということが、このようなものとなってしまう、ということを克服するのは大変なことである。
これを克服していくためには、われわれは、自分のこの傾向を克服するのだ、という強い意志をもって、自分が直面した事態にかんして、これを下向的にほりさげて考察する、という自己訓練をつみかさねていく以外にない。
このときに重要なことは、自分が読んだ報道記事や資料やまた誰かの見解や、さらに誰かがしゃべったことなどを、一つひとつ徹底的に批判することである。事実と称するものや、提示された価値判断などをそのまま自分のうちにとりこんではならない。マルクスが『剰余価値学説史』でおこなったように、徹底的に批判しなければならない。われわれは、現にあるものを批判することによって、新たなものをうみだすことができる。
