マルクスの、「物化」すなわち資本制商品経済的物化」についての解明はこれだ!

マルクスの、「物化」すなわち資本制商品経済的物化」についての解明はこれだ!

 

 『資本論』第一巻、第一篇、第一章、第四節「商品の物神的性格とその秘密」で、マルクスは次のように書いている。

 「では、労働生産物が商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的性格は、どこから生ずるか? 明らかに、この形態そのものからである。人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値対象性という物象的形態を受けとり、人間的労働力の支出の、その時間的継続による度量は、労働諸生産物の価値の大いさという形態を受けとり、最後に、生産者たちの諸労働のかの社会的諸規定がそこで実証される彼等の諸関係は、労働諸生産物の社会的関係という形態を受けとる。」(マルクス著、長谷部文雄訳『資本論』第一部、青木書店、172頁——下線は原文では傍点、以下同じ)

 「……これに反して商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働諸生産物の価値関係は、労働諸生産物の物理的本性、それから生ずる物的諸関係とは、絶対に何の係わりもない。それは人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という幻影的形態をとるのである。」(172~173頁)

 「……彼等の諸労働そのものにおける人と人との直接的に社会的な諸関係としてではなくて、むしろ、人と人との物象的諸関係および物象と物象との社会的諸関係として、現象するのである。」(173~174頁)

 この展開をうけて、第三章、第二節、(a)「商品の姿態変換」の最後の方で次のように論述される。

 「商品に内在的な使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接的に社会的労働として現われねばならぬという対立、特殊的・具体的労働が同時に抽象的・一般的労働としてのみ意義をもつという対立、物象の人格化と人格の物象化との対立、——こうした内在的矛盾は、商品の姿態変換上の諸対立において、それの発展せる運動諸形態を受けとる。」(234頁)

 よく言われる「物の人格化と人格の物化」という表現は、ここからとられたものである。ここで、日本語で「物象」という表現をとるのか「物」という表現をとるのかということは、ドイツ語のザッヘ(ことがら、物象)とディング(物)とを、マルクスは同じ意味でつかっていると判断して同じ訳語を採用するのか、それとも訳しわけるのかという違いにすぎない。

 以上のマルクスの文章を見るならば、マルクスは、労働諸生産物の価値関係の把握を基礎にして、「物化」ということを論じていることがわかる。

 さらに、マルクスは、『資本論』第三巻の第七篇、第五一章「分配諸関係と生産諸関係」において次のように書いている。

 「この生産様式そのものの主要当事者たる資本家と賃労働者とは、資本家および賃労働者としては、資本と賃労働との体化・人格化にすぎない。すなわち、社会的生産関係が個々人に刻印する一定の社会的性格、この一定の社会的諸関係の生産物、にすぎない。」(『資本論』第三部、1238頁)

 「全資本制的生産様式を特徴づける社会的生産諸規定の物化と生産の物質的諸基礎の主体化は、すでに商品に含まれているのであって、資本の生産物としての商品に含まれているのは云うまでもない。」(1239頁)

 ここで、「社会的生産諸規定の物化」という表現がつかわれているわけである。

 私は、いま、マルクスが『資本論』において「物化」ということについて論じている部分を引用した。われわれは、マルクスのこの展開を基礎にして、資本制商品経済的物化を、すなわち、「人格の物化と物の人格化」ということを、そして「資本家および賃労働者は資本および賃労働の人格化だ」ということを、つかみとり、考察しなければならない。