マルクスの「唯物史観」の展開(『経済学批判』の序文)を読もう!
マルクスの『経済学批判』という本の序文に、のちに「唯物史観の公式」と呼ばれるようになったものが展開されている。ここに、この部分を抜粋して掲載する(読みやすいように行かえを多くした)。
「唯物史観」とは、人間歴史の唯物論的な観方(みかた)ということである。
みなさん!
これを読み、感じ、考えよう!
マルクス『経済学批判』序文のなかの「唯物史観の公式」と呼ばれるもの、その抜粋
生活の社会的生産において、もろもろの人間は、一定の・必然的な・彼らの意志から独立した諸関係をとりむすぶ。この諸関係は、彼らの物質的生産諸力の或る一定の発展段階にみあった生産諸関係である。
これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造をかたちづくる。これが現実的な基礎〔土台〕である。この基礎〔土台〕の上に、政治的・法律的な上層建築〔上部構造〕がそびえたち、そして一定の社会的意識諸形態が対応する。
この物質的生活の生産様式は、社会的・政治的・そして精神的の生活過程一般を制約する〔条件づける〕。
人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その特定の発展段階に達すると、それらがこれまでその内部で運動してきたところの現存する生産諸関係に矛盾するにいたる、または生産諸関係の法律的表現にすぎないところの所有諸関係に矛盾するにいたる。これらの諸関係は、生産諸力の発展形態からその桎梏(しっこく)に急変する。そこで、社会的革命の時期に入る。経済的地盤の変動とともに、巨大な上層建築のすべてが、あるいは徐々に・あるいは急速に、転覆される。
こうした諸変革を考察するさいには、次の二つのことを区別しなければならない——(イ)経済的生産諸条件における変革、つまり自然科学的に正確に確認されうるような物質的変革と、(ロ)その中で人間がこの衝突を意識したたかいぬくところの、法律的・宗教的・芸術的あるいは哲学的な、簡単にいえばイデオロギー的な諸形態とを。
或る個人がなんであるかを、彼が自分自身をどのように考えているかということで判断することはできない。これと同様に、そうした変革の時期を、この時代意識から判断することはできない。むしろ、そうした意識を、物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだの現存する衝突から、説明しなければならない。
或る社会構成は、すべての生産力がそのなかで十分すぎるほど十分に発展するまでは、決して崩壊することはない。そして新しいより高度な生産諸関係は、この物質的な実存諸条件が旧い社会の胎内で熟成するまでは、従来のものにとってかわることは決してできない。
だから、人間は、つねに、みずからが解決できる課題のみを提起する。というわけは、より詳しく考察するならば、次のことがつねにわかるであろうからだ——課題そのものは、課題解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、それともこの諸条件が生成の過程にあるか、というばあいにのみ生じるということが。
大ざっぱにいえば、アジア的・古代的・封建的・そして近代ブルジョア的の諸生産様式が、経済的社会構成の前進的諸時代として、あげられうる。
ブルジョア的生産諸関係は社会的生産過程の最後の敵対的形態である。ここで敵対的というのは、個人的敵対の意味ではなくして、諸個人の社会的生活諸条件から生じる敵対という意味である。だが、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある物質的生産諸力は、同時にこの敵対を解決するための物質的諸条件をつくりだす。だからして、このブルジョア的社会構成をもって、人間社会の前史は終わりを告げる。