『資本論』の体験  〔1〕 『資本論』は、生産者を収奪した資本主義の成立史からはじまっていなかった

資本論』の体験

 

 

 〔1〕 『資本論』は、生産者を収奪した資本主義の成立史からはじまっていなかった

 

 

 私は、若いころ、受験勉強をし競争をしていい学校に入り、いい会社に就職して、いい生活をすることをめざす、というこの社会を変えなければならない、と考えていた。考えない大人たちで成り立っているこの世界を変えるために、――大人たちはもう駄目だが――自分たち若い世代を、考える人間にしなければならない、と考えていた。当時はアメリカとソ連とがあらそっていたが、国が戦争をする、ということを認めるのは、世界を変えることができる、と考えないからだ、とおもっていた。

 私は、友だちといろいろと話しながら、この資本主義社会をひっくりかえすために『資本論』を読まなければならない、と考えた。しかし同時に、『資本論』を読むのはまだ早い、とおもった。マルクスの『賃労働と資本』や『賃金・価格および利潤』を先に読んだ方がいい、ということも、私はまだ知らなかった。本屋に行くと、ソ連の『経済学教科書』と並んで、それの圧縮版のようなソ連製の本の訳本が二種類あった。一つは、新書版のぶ厚い目の一冊であり、もう一つは、新書版で二冊であった。私はこの両方を買って読み比べた。

 一冊本の方は、農民から生産手段を収奪して資本主義が成立した、という資本の根源的蓄積過程の分析からはじまっていた。二冊本の方は、商品にかんする叙述からはじまっていた。私は、前者の方が、どんなに悪いことをして資本主義が誕生したのかがよくわかるので、こちらの方がいい、とおもった。

 ところが、である。

 いろんな友だちのなかに、『資本論』から読むべきだ、と強硬に主張する女の子がいた。その子はブルジョアの家庭の子であった。『資本論』をもっていた。それをちょっと見せてもらうと、一番最初に書かれてあったのは、商品であった。私は、ヘェー、そうなのか、とおもった。私の思いはくつがえされた。

 ずっとあとになって、これは、『資本論』における論理的なものと歴史的なもの、すなわち、資本制生産を論理的(=歴史的)に把握することと、資本制生産が成立した歴史的過程を歴史的(=論理的)に把握することとをどのように論理的につかみとるのか、という問題にかかわる、ということを、私は知った。

 両者のどちらの本にも書かれてあったことで、これはおかしい、と疑問におもったことがあった。それは、「私的労働と社会的労働との矛盾」ということであった。資本主義社会においては、労働者は資本家に雇われて労働しているのだから、その労働を私的労働と呼ぶのはおかしい、ここに「私的労働」というものをもちだし「私的労働と社会的労働との矛盾」と論じるのは間違いである、というのが、私の疑問であった。

 のちに『資本論』を読んだときに、そのなかに「私的諸労働」という規定がでてきた。そのあたりの展開は、ソ連製の本にでてくる「私的労働と社会的労働との矛盾」というような形式主義的で平板なものではないことをつかみとったのであったが、「私的諸労働」という用語をマルクスが使っていることをどのように理解すればいいのか、ということは、私にはわからなかった。

 さらにのちに、この問題は、『資本論』の体系的叙述をどのように論理的に把握するのかということにかかわる大きな問題である、ということを私は知った。

 その当時、アメリカだけではなくソ連もまた核実験をやっていたので、核実験をやるような国の社会はおかしい、アメリカのような社会をひっくりかえさなければならないし、ソ連のような社会もひっくりかえさなければならない、と私は考えていた。このことが、マルクス主義関係の本をいろいろと読んで教えてくれた・共産党にひかれている友だちとは異なって、私がマルクスにスーッと入っていけないものであった。他面では、日本のこの現実を変え・自分自身を変えるためには、マルクスの『資本論』を読まなければならない、ということを私は痛切に感じていた。

 現在のソ連を規定しているイデオロギーは、マルクス主義ではなく、マルクス主義を歪曲したスターリン主義である、ということを、共産党に否定感をもっている友だちが私に教えてくれたのは、ソ連製の二種類の本を読み比べていた・その数か月後のことであった。

 

 若い人たちが、自分自身がどのような意欲と構えと問題意識をもって『資本論』を読むのか、ということを考える一助となるように、いま、私は、私の体験を語ってきた。何十年も前にはこのような若者もいた、とおもってもらえばいい。

 私は、いま、『資本論』を、マルクスの精神を、おのれの実存的支柱としている人間である。